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チョコレート・ブーケ

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 のれんに腕押し。ぬかに釘。
 ここ数年、バレンタインに私が渡したチョコに対するイルミのリアクションたるや、そんな言葉がピタリと当てはまってしまうほどに味気ないものだった。
 渡されたチョコを口に含み、考え込むように首を傾げては頷く。その行動の意味するところも不明ながら、ホワイトデーにお返しを貰ったこともただの一度も無い。
 だが去年。ついにその不可解な行動の理由を知ってしまった。ついでに言えばホワイトデーにお返しらしきものが全くない理由も。


****


 夕食をレストランで済ませると、早々にホテルの部屋に引き上げてきた。
 いつもは先に入らせて貰う入浴順をイルミに譲り、一人部屋に残ると、テーブルの中心に持参した手作りチョコケーキを置き、ルームサービスで頼んだシャンパンとグラスを並べる。
 今年こそは反応を引き出してやる! そんな意気込みのおかげか、ケーキは何台も焼き、一番上手く焼けたものにデコレーションを施した。まさに会心の出来だ。シャンパンもチョコレートに合いそうなものをセレクトして、予めホテルの方に取り寄せてもらっていたもの。


「こんなもんかな?」


 見栄えのするセッティングに満足して顔を上げる。窓ガラス越しに見えるのは、輝き煌く夜景。けれど、窓ガラスに映っているのは、まるで彼女を喜ばせようと奮闘する男さながらに気合を入れた自分の姿だった。
 別に女が男にしたって問題なんて無い。わかっている。
 それでも、いつも自分ばかりがこうして動いているのではないかと思うと、少しの虚しさが胸を過ぎった気がした。
 カタン。不意に脱衣所の扉が開く音が耳奥に響いた。


も早く入りなよ」


 窓ガラスに反射して、白いローブを纏ったイルミの姿が映り込む。セッティングされたテーブルは目に入っているだろうに、相変わらず反応はない。私は気持ちを落ち着けようと髪を手櫛で梳き、ゆっくりと振り返った。
「わかった。すぐに上がるから」
 イルミの横をすり抜けて、脱衣所の扉を開く。服を脱ぎ捨て湯気煙る浴室に体を滑り込ませた瞬間。空気より重いため息が、臓腑から吐き出されるのを感じた。


 イルミに習って濡れた素肌に白いバスローブを纏い、同じく濡れた髪をタオルで拭いながらリビングへと戻る。
 ソファに腰掛け、長い脚を組んでいるイルミの手にはシャンパングラスが握られていた。テーブルに置いておいたケーキも、ホールごと無くなってしまっている。


「あれ? 先に食べちゃったの?」


 あれだけ入念にセッティングしたのに……という不満は、全部食べてくれた嬉しさで塗りつぶされていた。自然と声も弾む。
 私は例年のイルミの反応を忘れていたのだ。


「うん。今年は結構きつかった。何の毒入れたの?」


 思い返せばイルミは毎年、チョコを食べる度に首を傾げていた。もしかして、もしかすると、そうであって欲しくはないけれど、何の毒が入っているのか考えていたのだろうか? そして、毎年思い当たる毒があった……と。


「ね、ねぇイルミ。今日が何の日かわかってる?」


 一縷の願いを込め、問いかける。
 イルミは猫目をパチンと瞬くと、コテンと首を傾げて口を開いた。


「毒の耐性チェックの日」


 なるほど。最初からバレンタインという認識が伝わっていなかった、と。しかもイルミの話から察するに、私の料理の腕前は惨憺たるものなのだろう。出来れば知りたくなかった。
 イルミの隣に腰を下ろして、たまらず天を仰ぐ。きららかなシャンデリアの灯りに目を焼かれた気がした。


****


 ――と、事の次第はこんな感じだ。
 今年はどうすべきだろう。去年も結局バレンタインの存在は口に出せないままだった。
 毒入りと間違われるチョコを作ることに、一体何の意義があるのか。いっそ本当に家にある珍しい毒でも入れて、耐毒チェックの日にしてやろうか……。
 自室のキッチンで製菓の材料を並べ、低く唸った。調味料に混ざって猛毒が置かれているのは仕様である。
 バレンタインだとすら伝わらないなら、もういっそ作るのやめちゃおうかな。しばらく同じ体勢で考え込み、凝ってきた肩をゆっくりと回す。壁に掛かった時計を見れば、既に十四日になってしまっていた。


「ん? この気配は……」


 ベランダの方から微かに漂ってくる気配に呼ばれ、私はダイニングを抜け、リビングのカーテンに手をかけた。シャッと音を立てて開け放たれた窓ガラスの奥には、長い髪を風に靡かせて立つイルミの姿があった。ガラス越しに目が合うと、片手を挙げて「やぁ」とイルミの口が動く。


「イルミ、どうしたの?」


 突然の来訪に驚きつつも、鍵を開けて部屋に招き入れる。イルミから微かに漂う甘い匂いに気をとられていると、突然目の前が茶色に染められた。


「……これは?」


 茶色の正体。それはチョコレートで出来た花束だった。


「去年の様子が変だったから、二月十四日が何の日か知り合いに聞いた。男女の愛の誓いの日……だっけ? 好きな相手にチョコレート渡すって聞いたからさ、あげる」


 ほら、と押し付けられたチョコで出来た薔薇の花束。鼻先をくすぐる甘やかな香りが肺を満たし、甘やかな感情が笑顔に溶けた。


「ありがとう、イルミ!」


 ちらりと視界の端に見えた窓ガラスの中の私は、とびっきりの笑顔を浮かべてイルミに抱きついていた。







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