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イヤホンから溢れ出る世界

eins

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『――じゃあね、景吾』


 そこまで言うと録音ボタンをオフにして、は苦い笑みをこぼした。


「じゃあね、か」

 僅かに掠れた声。「らしくないわね」と呟くと、持っていたICレコーダーを跡部景吾の机の中に押し込んで歩き出した。白い扉をガラリと開く。もう見ることもなくなるであろう教室を振り返ると、ゆっくりと視線を一巡させた。
 何度も見上げた掛け時計。いつも視線の先にあった黒板。そして、大好きな人の席。開いたままの窓から風が吹き込み、カーテンがハラリと舞う。誰も居ないセピア色の教室は、室内を覆う西日のせいかどこか寂しげな雰囲気を纏っている。
 は浅く呼吸をすると、スカートの裾を翻し、教室に背を向けた。


「……バイバイ、氷帝」

 吐き出した言葉は誰に届くでもなく、自身の胸を鋭く引っ掻いて消え、長い廊下には歩き出したの足音だけが静かに響いていた。




イヤホンから溢れ出る世界





 放課後のテニスコート脇を通り抜けると、黄色い声が雨の如く降り注ぐ。いや、耳に突き刺さる事を考慮すれば、雨と言うより槍かもしれない。いづれもレギュラー陣の名前を叫んでいる女子生徒たちの声だ。
 今日も凄いわね、とが半ば他人事のように感心していると、不意に誰かに腕を掴まれた。大きく骨ばった手が、つい先日衣替えしたブレザーに無遠慮に食い込む。


先輩、良いんですか?」


 掴まれた腕を辿って視線を向けると、そこには見知った後輩の姿があった。
 サラリと流れる薄茶色の髪に、男子テニス部の指定ジャージ。片手にはラケットが握られている。コートを抜け出して来たことは一目瞭然だ。


「……日吉。“良い”って、何のことかしら?」

「あれに決まってるじゃないですか」


 がわざと空っ惚けると、日吉は苦々しい視線をテニスコートの方へと向けた。彼の視線の先には、熱心にテニスに打ち込む部員たちの姿。そして、彼らの間をクルクルと動き回る一回り小さな女子生徒の姿がある。一年生に混ざりボール拾いをしているのが、仔犬のようでとても愛くるしい。彼女は篭一杯にボールを集めると、今度は首から提げたストップウォッチらしき物に目を落として、慌てた様子で部室へ入っていった。
 どうやら今から休憩らしい。すぐに部室から出て来た彼女は、レギュラー一人一人にドリンクとタオルを配り歩いている。その際、ストップウォッチ同様に首から提げたノートに何かを書き込んでいるのが窺い知れる。仕事熱心なのだろう。


「“あれ”って、あの子のことかしら?」

「良いんですか?」


 日吉が言っているのは、マネージャーとしての彼女のことではない。そんなことは疾うにわかっている。は視線をコートから日吉に移し、僅かに目を伏せた。


「良いも悪いも、決めるのは景吾でしょ。それに――」


 の言葉に被さるように、急に女子生徒たちの悲鳴が聞こえてきた。声が向けられているのは、女子生徒たちの視線の先にあるテニスコートだ。一体何事かとは日吉の肩越しにコートを見遣り、早々に後悔した。
 誰よりも彼の一番近くに居るのは自分だと、胸を張って言えていたのは一体いつの話だろうか。
 網膜に映りこむ跡部と、彼に頭を撫でられているマネージャーの姿に、心臓を握りつぶされるような圧迫感と痛みが襲い掛かる。いつもは見ないように足早に通り過ぎる道で立ち話などしていたのがそもそもの間違いなのだ。は未だ自分の腕に掛かったままの日吉の手を掴むと、人気の少ない方へと歩き出した。


「先輩?」


 戸惑っているような日吉の声に振り返ることなく、が「此処に居たくないのよ」と零すと、日吉は何も言わずに足を動かした。


 数ヶ月前。夏の大会を控えたテニス部に、サポート役としてマネージャーが入った丁度その時期に、は珍しく家族揃って食事を採ることになった。
 常日頃、両親は仕事で忙しくて基本的には家に居ない。家は氷帝で言えば跡部に次ぐ家柄。それも仕方の無いことだと思っていたには、嬉しい晩餐である。


、学校はどうだい?」


 向かいに座る父は端整な顔に笑みを浮かべて、そう切り出した。普段会話をする機会がないせいか、型通りの質問である。
 だが、そもそも普通の親子の会話、というものに縁のないには、これが型通りであることはわかっても、ならば何がこの場に相応しい会話なのかまではわからない。


「普通、なのではないかしら?」


 普段の生活を思い浮かべて、はあっさりと結論付けた。
 特に良いことも嫌なこともなかったし、勉強も付いていくのに苦はない。友人もそれなりに居るし、付き合っている人も居る。これがにとっての普通だった。誰かと比べるわけでないのなら、それ以上でも以下でもない。


「そうか。父さんたちとロンドンには行かないか?」


 驚く程に急な話題転換。
 思わず聞き間違いかと思ったくらいだ。


「ロンドン?」


 兎に角情報を得ようと口を開いた。が、言われた言葉をそのまま返している時点で、だいぶ動揺しているのだろう。肉を切っていたはずのナイフも完全に停止している。


「あらあら。パパ、急すぎてが驚いているわよ」


 母からのんびりとした語調で咎められ、父は慌てて言葉を重ねた。


「これから仕事の拠点がロンドンになる。私も、ママもだ」

「だから、やっと一緒に暮らせるのよ。もちろん、の意志は尊重するわ。これまで放って置いてしまったんですもの。日本に残るか、私たちと一緒にロンドンへ来るか」


 選べと言われて、は何も言えずに押し黙る。とても早急に結論が出せる問題ではないのだ。それこそ今の日常全てを捨てるということなのだから。


「こらこら、畳み掛けたらが戸惑うだろう」


 先程とは打って変わって、父が母を諌めている。
 対して、母は「あらあら、ごめんなさい」と然して悪びれた様子もなく微笑んだ。


「とにかく、結論は今すぐじゃなくていい。九月にでも出してくれ」

「あと三ヶ月。考える時間としては十分よね?」


 にこりと微笑んだ母の顔に圧されて、は唯々人形のように頷き、味のしないロースとビーフを噛み締めたのだった。


「つまり、自分は去るから良い、と?」


 日吉に詰め寄られ、は僅かばかり身を退いた。


「良い、というか……景吾の気持ちが私から離れて行ってることくらい、誰にだってわかるでしょう?」


 あの時迷っていた答えを、は既に数週間前に両親に告げていた。
 跡部の気持ちが自分を離れて別の誰かへ移っていく。それをこれからも間近で見なければならないのなら、いっそ離れてしまいたいと思ったのだ。


「で、それを跡部さんに言ったんですか?」

「景吾には言ってない。……忍足には知られてしまったけれど」

「忍足さん?」


 言外に「何故」と問われ、は事も無げに答えた。


「両親と電話で話してるとこ、聞かれたのよ」

「そうですか」

「えぇ」


 そこで話が途切れる。沈黙が居た堪れず頭上を見上げると、空は紫がかった夜の色へと変化を始めていた。
 薄っすらと空に形を露にした球体が、今宵は満月だと告げている。


「何で、言わないんですか?」


 静寂を破って日吉の凛とした声がの耳を突いた。
 は空からすっと視線を下ろして、自らの手元へと落とした。左手の薬指。銀色のリングをそっとなぞると、跡部とのこれまでの記憶が次々と浮かんでは消えていく。楽しかった日も、喧嘩した日も、苦しんだ日も。
 記憶に呼応するように込み上げてくる熱いものを、唇を強く噛んで抑えつけた。
 暫しの沈黙。
 それでも黙り込んだままでは居られない。は数度浅い呼吸を繰り返すと、震える唇を開いた。


「引き止めて貰えるなら、言ったかもしれない。でも、今言ってもきっと『そうか』で終わり。それどころか『良い機会だから別れよう』って言われるのが関の山ね。みっともないけど、汚いけど、私は日本に居る間だけでも景吾の彼女で居たいの。それが例え」


「名ばかりの恋人でも、ですか?」


 言葉尻を取られる。まさに自分が言おうとしていた言葉だった。
 だが、自分で言うのと人に言われるのでは天と地ほどに違う。カッと頭に血が上る。
 次の瞬間、は咄嗟に右手を振り上げていた。が、それは振り下ろされること無く日吉に掴まれ、体ごと引き寄せられた。


「……ひ、日吉?」


 戸惑うの上から深い溜息が聞こえてきた。


「仕方ないですから、今だけお貸ししますよ――泣き場所くらい」


 日吉の言葉に、既に緩んでいた涙腺はあっという間に決壊したのだった。



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