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イヤホンから溢れ出る世界

zwei

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「跡部先輩、どうかされたんですか?」


 鈴の音に似た高い声に呼ばれ、跡部はようやくフェンスの向こう側から、目の前のマネージャーに意識を向けた。
 跡部がいつまでも頭に手を置いたまま突っ立っているため些か困惑しているようだ。彼女の手からドリンクを受け取ると、跡部は「何でもねーよ」とだけ返して、マネージャーを呼んでいる忍足の方へと彼女を送り出した。
 いつもならば午後のメニューに意識が向くというのに、今日に限って意識があらぬ方向へと向かってしまう。


「あれはと日吉?」


 二人が並んでいる絵面を思い起こしては、酷い違和感を覚えて眉根を寄せる。


「何や跡部、どないしたん? 自慢の顔が台無しやで?」


 低く擦れた関西弁に振り返れば、いつの間に傍に来たのか。伊達メガネが異様に胡散臭い忍足が、怪しげな笑みを浮かべて跡部の斜め後ろに突っ立っていた。


「何でもねーよ」

「って顔やあらへんなぁ〜」


 口の端を吊り上げる忍足は、宛らアリスに出てくるチェシャ猫のようだ。


「アーン? 忍足……テメェ、何が言いたい?」

「気になるんとちゃうんか? 日吉と姫さん」


 忍足は二人が連れ立って消えた方向に向かって顎をしゃくる。
 不意に去り際の光景を思い出し、跡部の眉間は更に幅を狭めた。


「素直になったらええのに。あの二人は同じ委員や」


 言われてみれば、も報道委員だったかと思い当たる。だが、同じ委員というだけでそう仲良くなるものだろうか? と、跡部の脳裏には次の疑問が降って湧く。


「細かいことはよーわからん。けど、確か日吉が珍しく懐いとる言うて鳳が騒いどったなぁ〜」


 口に出してもいないのに、的を射た答えが返ってくるというのはどうにも薄気味が悪い。
 第一、跡部はとは別れる気で居た。彼女が誰と居ようとも、最早関係のない話である。


「それともあれか? 嬢ちゃんが居るから関係ない、か?」


 再度胸の内を言い当てられたことよりも、忍足の真剣な眼差しに跡部は驚きを隠せなかった。暫し互いに押し黙ったまま立ち尽くす。会話こそなかったが、忍足の目は雄弁に物を語っていた。
『ほんまにそれでええんか?』と。
 忍足同様、無言で『余計な世話だ』と視線で返せば、忍足はコートに向かって歩き出した。


「はぁ、今は此処までやな」


 と、去り際に一言残して。


****


 昼の休み時間を迎え、跡部は屋上へと続く階段を登っていた。踊り場に反響する音は自分一人の分だけ。滅多に此処へは来ない跡部は、女子生徒の誰かしらが付いてくるだろうと踏んでいたのだが、どうやらこの場所は不可侵領域というやつらしい。誰も付いてくる様子は無い。
 数度踊り場を通過すると、屋上へと繋がる扉が姿を現す。鍵の開いている扉を開け放つと、当然のようにテニス部のレギュラー陣とマネージャーが腰を下ろして弁当を広げていた。視線が一斉に扉を開いた跡部に集まる。大きく反応したのは、金色の髪がふわふわと羊を思わせる芥川慈郎だった。


「跡部が来るなんて珍C−!」

「慈郎が起きてるてことの方が数倍珍しいだろうが、なぁ?」


 周囲に同意を求めれば、それこそ皆一様に首肯する。


「A−! みんな酷いC〜」


 跡部は慈郎の傍まで歩み寄り、彼の頭をクシャリと撫でるとそのまま隣に腰を下ろした。途端、芥川は「あれ?」と声を上げ、視線を跡部の後ろに移すと、その周囲を何かを探すようにして彷徨わせた。


「ねぇねぇ跡部、ちゃんは?」

 無邪気な問いかけに跡部が答える前にマネージャーが箸を咥えたまま首を傾げる。


「あの、ちゃんって、どなたですか?」

言うてな、跡部の彼女や」


 忍足の言葉にマネージャーの肩が微かに震えた。


「跡部先輩、彼女さん居たんですか?」


 小動物を思わせる大きな目が不安に揺れている。跡部は一瞬の逡巡の後、首を横に振っていた。


「いや、あいつとはもう別れた」


 跡部の言葉にレギュラー陣は驚きを隠せなかった。
 向日はせっかくの唐揚げを取り落とし、鳳は何故か宍戸の名を連呼し、連呼された宍戸は「激ダサだぜ」と意味の分からないことを呟き、芥川は再度「A−!?」と叫んでいる。樺地は何も言わなかったが、忍足はメガネの奥の目を眇めた。
 仲間の様子を順繰りに眺めていた跡部は、不意にこの場に何かが足りない気がして、再度この場に居る顔触れを順に追った。


「日吉はどうした?」

「日吉なら此処にいるわよ?」


 跡部の問いに関する答えは、この場に居るレギュラーの誰からでもなく、扉の向こう側から聞こえた。跡部が登場した時同様、再度全員の視線が扉へ注がれる。
 キィ……と、殊更ゆっくりと開いた扉の向こうには、話題に上がっていた日吉が立っている。その後ろからは、跡部がつい今し方交際を否定したが顔を覗かせていた。


「なぁなぁ、お前本当に跡部と別れたのか!?」


 落とした唐揚げを拾い上げた向日がに詰め寄ると、庇うように日吉が前に出る。


「あーもう! 邪魔すんなって!」

「邪魔したつもりはありませんよ」


 そう言った日吉が背後に立つを振り返り、無言で指示を仰ぐ。王子、というよりは騎士といった雰囲気である。が頷くと日吉は左へ一歩ずれ、隣を空けた。は左手に弁当らしき包みを持ち、その手をもう一方の手で上から覆うようにして体の前で揃えている。スッと背筋の伸びた立ち姿は、凛として咲く花のようだ。彼女は一歩前に出ると、向日に向かって柔和な笑みを浮かべた。


「えぇ、跡部君とは別れたわよ」


 跡部はの答えに、予想外の衝撃を感じて瞠目していた。あっさりと関係の破綻を肯定されたせいか、はたまた呼び方が付き合う前どころか出会った当初に戻ってしまったからか。理由は跡部自身も判然としない。
 そしてそれ以上に違和感を覚えたの表情。確かに見慣れた笑顔のはずなのに、跡部には到底笑顔などには見えなかった。ふと視線の端に映ったの手。重ねて離そうとしない動作が異様に気になり、視線を外せない。
 が動いた一瞬だけ、指の隙間から隠した銀色が光を放って、跡部の目を焼いた。
 その瞬間。跡部は胸の奥まで小さく焦がされたような痛みを感じて目を伏せていた。



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