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イヤホンから溢れ出る世界

drei

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「うまく、笑えてたかしら?」


 は報道委員会の拠点である放送室へと飛び込むと、誰にともなく呟き、ズルズルと背にしたドアにもたれて座り込んだ。
 本来委員会の取材で男子テニス部レギュラーにインタビューをする予定だったのだが、それも全て日吉一人に押し付けて逃げてきてしまった。先輩がこれでは示しがつかないではないかと己を奮い立たせるも、跡部の言葉が蘇るたびに奮い立った心は粉々に砕けてしまう。
 薬指を飾る銀色を左手ごと目の前に翳すと、先日の日吉とのやり取りが頭を掠める。


「……名ばかりの恋人ですらなくなっちゃったわね」


 いっそのことマネージャーの子が嫌な子だったら良かったのに、彼女は純粋にテニスが好きで、純粋に皆を応援し、純粋に跡部に好意を寄せているのである。屋上でも、彼女は敵視の視線は一度たりとも向けてこなかった。
 は指輪を薬指から外して床を転がした。カーペットの敷き詰められた床を滑るように転がり、指輪は機材の下へと消えてしまう。あ、と思った瞬間には立ち上がっていた。


「待って!」


 自分で転がしておいておかしな話である。
 しかし、の願いも虚しく指輪は機材の下へと滑り込んでしまった。何もかもなくなったような空虚感に、自然と嗚咽が込み上げる。


「ふぇ、っ……ぅ」


 ぼんやりと歪む景色。胸の真中が熱くて、脳がくらくらする。熱が溢れると思った時には、頬が濡れていた。


「何泣いてるんですか?」


 誰も居ないはずの空間で響いた声に、反射的に肩が跳ねる。
 振り返るといつの間に放送室に入ったのか、日吉が扉を背に腕組して立っていた。


「ねぇ日吉、私……もしかして、全部私が手放してしまったのかしら?」


 には自分から跡部と一緒に居たいと言った記憶が無い。どこかへ行きたいと強請った記憶も無い。他の子と仲良くしないでなんてベタな台詞すら口にした記憶が無い。
 断られるのが怖いから望まなかった。強請らなかった。頼まなかった。
 これでは誰だって気持ちが離れて当然だ。本当の自分を全然見せて居ないのだから。


「よく分かりませんが、間違っていたと思ったなら直せば良いんですよ。それだけです」


 真っ白なハンカチを差し出され、は静々と受け取った。
 これではどちらが年上なんだかわからない。


「……そうね、ありがとう。じゃあ、とりあえず」


 借りたハンカチで涙を拭ったは、ふうっと息を吐いて床に這いつくばった。
 無くなったと泣くだけでは小さな子供と変わらない。自分で掴まねばならないのならば、手を伸ばすことを諦めてはいけないのだ。だから、まずは指輪を探すところから始めよう。
 カーペットの柔らかな感触が、の体を受け止めてくれるせいか、然して膝も肘も痛みを感じない。
 埃まみれの空間に手を差し入れることに抵抗が無かったと言えばウソになる。これまで無縁と言っても過言ではない生活を送ってきていたのだから。
 は顔を強張らせながらおずおずと手を伸ばす。手に埃が当たるたびに手を引っ込めたくなったが、日吉に頼ろうとは思わなかった。大事なものなら自分の手で掴まねば意味がないのだ。


「あったわ!」


 指先に触れる細い冷感。爪を立てて引き寄せる。カラカラと回った指輪は、クネクネと進路を左右に振りながらも無事にの手元へ転がり戻って来た。


「良かったですね」


 指輪を無くした瞬間を見ていなかった日吉には、先程のの問いも、この現状も理解の外のことに違いない。だが、日吉はに何も聞かず、ただ其処に居てくれたのだ。本当に出来た後輩だ、とブレザーの袖についた埃を払いながら、は小さく苦笑を漏らした。



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