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「見送りありがとう、日吉」
引っ切り無しに頭上から降り注ぐアナウンスと溢れる人々の声に紛れて、日吉がそっと口を開いた。
「本当に良いんですか?」
硬い口調で問われ、は苦笑混じりに頷いて見せた。
「言いたい事はアレに入れてきたわ。……放送室でのこと覚えているかしら? 私ね、指輪を失くしてやっと大事な物にはきちんと手を伸ばさなきゃいけないって気づいたの。今までの自分が臆病で怠慢だったって。……だけど、相手は物ではなくて人間だもの。今更想い合っている二人の間に割って入って、よしんば壊してしまって、それで良いのかしら? って考えたらもう、ね。だから決めたのよ。好きな人の幸せを祈ろうって」
言葉にするだけで気持ちが少し軽くなる。は時計を確認すると、キャリーバッグに手を伸ばした。
「行くんですね」
「えぇ。だって――」
『十九時五十五分発ロンドン行きをご利用のお客様、搭乗手続きを開始致しましたので六番ゲートへお越しくださいませ』
「ね? 時間だもの」
タイミングよく響いたアナウンスに笑うと、突然腕を掴まれ、体を引き寄せられた。いつかの出来事が脳裏を過ぎる。
「俺は先輩が好きです」
「うん、知ってた」
知っていて利用していた。殆ど女の子を近づけないらしい彼が、自ら傍に居てくれたのだ。気付かない方がどうかしている。だが、それをまた日吉も知っていたのだろう。戸惑うことなく言葉を続けた。
「俺じゃ、駄目ですか?」
はそっと日吉の背に腕を伸ばした。だが、それは恋人同士が交わす甘い抱擁と言うよりは、姉が弟を抱きしめているような温かな抱擁。
「ごめんなさい。でも嬉しいわ、ありがと――ッ!?」
話の途中で背後から肩を掴まれ、強く引かれる。一体何事かと振り返ると、肩で息をしている跡部が目を吊り上げて立っていた。しかもあろうことかジャージ姿で、である。嫌でも目立つその姿に視線が集まる。だが、本人は普段から視線を投げられることが常のせいか、全くと言って良いほどに気がついていない。
「悪いが日吉、は返して貰うぜ」
言うが早いか跡部はを横抱きにして歩き出してしまう。には何が起こったのか良く分からなかった。混乱のせいか、荷物もそのままだし、搭乗時刻が迫っているし……と、思考がばらけて行くばかりで、うまくまとまらない。何より、この状況への理解も追いつかずにいる。
いっそう増えた視線を物ともせず、跡部は空港を出た。ロータリーには跡部家の黒いロールスロイスが停車している。跡部の姿を確認したらしい運転手によって後部座席が開けられ、は車中に放り込まれた。
此処へ来てようやく正気を取り戻したは車を降りようとしたが、跡部によって阻まれてしまう。
「ねぇ、景吾? 飛行機が出てしまうのだけど?」
「渡英はキャンセルだ」
断言した跡部の目は些か据わっているように見える。というより、事実据わっているのだろう。向けられた視線は、の目を見つめたまま動かない。
「景吾、悪いけど貴方の冗談に付き合っている程暇じゃないの。日吉も荷物も放置したままだし、私は行くわ」
逸らされないのならば、自分が逸らせばいい。は跡部からスッと視線を外すと、跡部の手を掻い潜り、車を降りる。
「じゃあね、景吾」
そう言って一歩踏み出した途端。車内から伸びた手に腕を掴まれ、再度中に引き入れられる。しかも、気がつけば跡部の腕の中だ。これでは日吉の時と同じ。同じはず、だった。
だが状況こそ同じでも、の胸に去来する想いは違う。
「行くな」
鼻腔をくすぐる香水の匂いが、抱きしめる腕の強さが、耳元で響く声が、愛おしくてたまらない。
「愛してる」
柔らかな言葉に心は簡単に陥落してしまいそうになる。だが、と冷静な自分の声が瞬時に脳裏を駆け、を思いとどまらせた。
「……嘘。景吾が好きなのはあの子でしょう?」
は宙に浮かせたままだった腕を体の間に入れ、跡部の胸を押す。が、跡部の力に敵うはずもない。逆に強く引き寄せられ、逃がさないとばかりにきつく抱きしめられる。体が痛み、軽く軋む。
「そうだ――と、俺様も思ってた。間抜けな話だ。俺様にみっともねー嫉妬をさせられる奴なんざ、以外に居るわけねーのにな」
自嘲の混じった声音はおおよそ普段の跡部らしからぬ弱気を内包している。嬉しかった。弱さを見せてくれたことが。言外に「愛してる」が本当なのだと伝えられたことが。
は腕を体の間から引き抜くと、躊躇いがちに跡部の背に回した。
かと言って、早々に素直になれるはずもない。
恨み言の一つでも言ってやろう。そう思って口を開いた。そのはずだったのに、気がつくと全く別のことを口にしていた。
「嫉妬、したの?」
の口から漏れた擦れたソプラノに、跡部は驚きからか小さく肩を揺らしながらも「あぁ」と頷いて見せた。跡部の返事に背中を押され、は漏れそうな嗚咽を堪えて唇を開いた。
「……私も、したわ」
今まで伝えることが出来なかった本音。
「悪かったな」
だが、言葉とは裏腹に跡部は肩を揺らして笑っている。
「何で笑うのよ!?」
まるで自分の気持ちを嗤われたような気がして、勢い任せに跡部を突き放していた。零れかけた涙が瞬きに圧されて頬を流れてしまう。結局自分ばかりが好きなのだと、悲しみよりも自分を哀れむ気持ちが湧いてくる。
「が嫉妬してたことがわかって嬉しかったからに決まってんだろ。アーン? それに、やっと本音言いやがったしな」
悪びれる様子もなく言い放つと、跡部はスッと手を伸ばしての頬を拭った。まるでの不安までも拭い去るように。
涙で霞んだ向こうには、柔らかな笑みを浮かべる跡部の姿。
が眦に浮かぶ涙を指で掬いながら「気障」と一言漏らば、楽しげにクッと喉を鳴らす跡部。失くした『普通』がそこには確かにあって、は跡部につられるように小さく笑っていた。
****
「もう、飛行機出ちゃったわね……」
運転手に頼んだ結果、暫く二人を乗せたまま車は目的地もなく走っている。日吉には跡部が連絡し、の荷物を持って帰らせたらしい。どうやら今日部活をサボった罰だとか。職権乱用もいいところである。
「あぁ。それより、今日が何の日だかわかるか?」
おもむろに尋ねられ、はチラリと跡部を見遣る。当然わかるだろ? と言わんばかりに自信満々の表情に、悪戯心を掻き立てられる。
「探し物の日、だったかしら? ……冗談よ、わかってるわ。景吾の誕生日ね」
ギロリと睨まれ早々に白旗を揚げた。
「プレゼントは用意してあるんだろうな?」
「あるわけないでしょ」
そもそも荷物自体がターミナルに置き去りなのだ。しかも渡英する予定で。
「なら仕方ないな。、俺様のものになりな。プレゼントとして受け取ってやるよ」
最初からこれが言いたかったらしい。まんま二年前と同じ言葉である。
尊大な物言いが彼らしい。
いつの間にか跡部の手には見覚えのある指輪が握られていた。が手放したはずの銀色。無言で手を差し出せと促される。
「……仕方ないわね。だけど、今度同じようなことがあったら今度は指輪ごと捨てるわよ」
何を、とは言わない。言わずとも伝わると思っているから。
「俺様が二度も同じ過ちなんざ犯すかよ」
跡部は何処から来るのか良くわからない自信を漲らせ、不敵と気障を足して掛けて二乗したような笑みを湛えて言い切った。
この世に絶対などないとだって知っている。けれど願わくば、跡部の言葉が現実になればいいのにと思う。
はそっと身を乗り出し、跡部の頬に口付けを落とした。
『期待してるわ』
と、言葉にする代わりに。