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イヤホンから溢れ出る世界

sechs

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 誰も居なくなった体育館裏で、跡部は深く溜息を吐いた。身を隠していた巨木の幹に背を預けて髪を掻き揚げる。
 助けに入ろうとしてタイミングを逃した結果、一部始終をただ見るだけになってしまった。勿論危なくなれば出るつもりではいたが、その必要はなかったらしい。に全て持っていかれた形だ。


「自分が言われても何も言わねーくせに……」


 数日前の教室での出来事。それが脳裏を掠める。同時に、彼女自身も後輩と同じような目に合っていたという事実を知り、知らずにのうのうと守れた気になっていた自分の脳みその目出度さに呆れる。
 だが、その一方で彼女たちの気持ちがわかると言ったに、喜んでいる自分を確かに感じて頬が緩む。これでは忍足の言った通りではないか。
 自分から手放しておいて何を今更とは思う。だが、欲しいものは是が非でも自分のものにする。それが自分のやり方。お誂え向きに、誕生日はすぐそこだ。


「……チッ。これも忍足が言ってた通り、か」


 何もかもを見透かされているような状況は面白くない。が、今回ばかりは感謝すべきなのだろうと、青い空を見上げながら跡部は自然と口の端が持ち上がるのを感じていた。


****


 十月四日。始業時間前の空き時間に、跡部は久しぶりににメールを送った。自分の部活が終わるまで教室で待っていて欲しいと、それだけを簡潔に。送ったメールはすぐにの携帯を震わせる。が携帯を開いたのを視線だけで確認し、自分の携帯を暫く眺めていると、それこそ簡潔に『わかった』とだけ書かれたメールが届いた。
 絵文字の一つも使えないのかと呆れる反面、至極らしいとも思う。
 跡部は己の携帯を制服のポケットへと仕舞うと、前方の扉から現れた教科担任の姿を見て、ようやく一限目の準備を開始するのだった。


****


「あの、跡部先輩!」


 部活の終了と共に教室へと足を向けた跡部を、か細い声が引き止めた。既に日も暮れかけているせいか、辺りにギャラリーの姿はない。レギュラーや準レギュラー、その他多くの部員は着替えの為に部室へ行ってしまった為、テニスコートには片づけをする一年と、跡部を引き止めた後輩マネージャーと跡部だけが残った。
 実際は教室へ向かっていたのだから、跡部がテニスコートに残ったと言うのは些か語弊があるかもしれないが。


「何だ?」

「その、これ! お誕生日おめでとうございます!!」


 マネージャーは後ろ手に持っていた包みを突き出し、跡部にはにかんだ笑みを向けた。少し小柄な彼女が跡部を見上げると、常より目が大きく映り、たいそう可愛らしい。まるでマルガレーテだな、と自宅の愛犬を思い出し、彼女を可愛がる自分の気持ちの答えが見えた気がした。


「ありがとよ」


 包みを受け取ると、ポンポンと彼女の頭を撫でて踵を返す。と、強い力で腕を取られた。


「あの!」


 犯人は言わずもがなマネージャーだ。落ち着き無く視線を散らし、頬を赤らめている。腕に伝わる振動で、彼女が震えていることは容易に知れた。


「……何だ?」


 その様子を見れば、彼女が何をしようとしているのかは一目瞭然だった。常ならば無碍に振り払うに違いない。ただ、彼女に対しては自分でも期待させたという負い目がある。例えその気持ちに答えられなくとも、彼女の言葉を聞かねばならない。跡部は中々口を開かないマネージャーを根気強く待った。
 彼女はピタリと己が眼を閉じ、スーハーと深呼吸を繰り返すと、ゆっくりと閉じた目を開いた。跡部の腕を掴む彼女の手からは、既に震えの一切が消えている。


「私、跡部先輩が好きです」


 真っ直ぐ過ぎる視線。だが、どこか諦めが滲んでいるように見えた。


「……悪いな。気持ちは嬉しいが、俺様の心は別にある」

ちゃ……さん、ですよね?」


 どうも一度インプットされた呼び方は中々消えないらしい。言いかけた言葉を訂正すると、マネージャーは僅かに眉尻を落として笑みを作った。跡部が無言で頷くと、彼女は跡部の腕から手を離して満面の笑みを浮かべた。いや、満面の笑みに見える作り笑いだ。頬が引き攣っているのが、インサイトを使わずともわかる。


「本当はプレゼント受け取ってくれないこと期待してたんですけどね、プレゼントはお前が良いって、言ってくれないかな? って」


 どこかで聞いたことのある話だ。と言うよりも、二年前の自分の誕生日の出来事そのものである。


さん、付き合ってた時から滅多にテニスコートには来なかったって聞いてたから、跡部先輩のことどうでもいいのかな? って、冷たい人なのかなって思ってたんです。でも、今なら違うってわかります。だって私に嫌がらせした人たちを止めてくださいましたし、それどころか彼女たちの愚痴まで聞くって言うんですもん。ほんと、敵わないです」

「可愛気は皆無だがな」


 何せ、メールに絵文字も顔文字も書かれたことがないくらいだ。


「でも、好きなんですよね?」

「……あぁ」


 不意に射るような眼差しを向けられ、跡部はしっかりと頷いた。


「へへ、引き止めてすみませんでした。また明日!」


 マネージャーは元気良く走り去って行った、ように見せたかったのだろうが、去り際に作った笑みは確かに崩れていた。
 最後まで泣くのを我慢していた姿はいじらしかった。きっと明日からはまた笑顔でマネージャー業に励むのだろう。


「逃した魚はデカかったかもしれねーな」


 軽口で嘯きながら、跡部は今度こそ、校舎へ向かって歩き出した。


****


 電灯で照らされた廊下には人の姿と思わしきものはない。
 跡部は自らの足音に背を押されるように、足早に教室への道のりを辿った。ジャージに差し込んだ手が汗ばんでいる。柄にもなく緊張しているらしい。常では有り得ない体たらくだ。
 だが、不思議とその事に不快感を抱きはしなかった。恐らく、これから大事なものを取り戻す高揚感に、些細な負の要素は紛れてしまっているせいだろう。
 階段を数度上り、教室に続く長い廊下に差し掛かった。既に前方には小さくではあるが、自分のクラスが書かれたプレートが見える。教室に近づくにつれて足の回転速度が増し、呼吸が浅くなる。少し息苦しいくらいだ。
 閉ざされた扉の前に立つ。中から聞こえたカタンッという物音に人の気配を感じて思わず安堵した。そんな自分に、自然と苦い笑みが漏れる。ふうっと息を吐き出すと、扉の溝に指を差し入れ横に引いた。


「待たせたな」


 しんと静まり返った教室に発した言葉が広がる。
 しかしながら、応えはない。
 蛍光灯に照らされた室内には、ただ等間隔に並んだ机が普段と変わらずそこにあるだけで、人の姿など影も形もありはしなかった。


「……?」


 呼びかけに応えるように、開いたままの窓から風が差し込み、白いカーテンを大きく揺らした。
 ――カタンッ。
 風に圧されたカーテンが机にぶつかり硬質な音が響く。カーテンの裾に入った錘が当たったのだろう。つまり自分が聞いた物音はこれか、と容易に答えは導き出せた。
 裏切られたようの気分が胸を占める。


「チッ」


 舌打ちをして踵を返す。が、その際目端で何かが光った気がして跡部は視線をゆっくりと戻した。


「俺様の席?」


 机の中から何かがぶら下がっているように見える。他の机や椅子の陰に隠れているようで、近づかなければ正体はわかりそうもない。もしかすると、いつものようにファンの誰かが入れたプレゼントかもしれない。跡部に好意を寄せる女子生徒からのプレゼントかもしれない。だが、不思議と違う気がした。
 再びつま先を室内へと向け、自身の席へと歩み寄る。


「これは!?」


 銀色の光を放つ小さな輪――指輪だ。跡部が以前に贈ったもの。
 指輪に通された銀色のチェーンは、何かに繋がれている。引っ張り出すと小さな機械が出てきた。


「……ICレコーダー」


 裏を向けると『氷帝学園報道委員会』の刻印。人に聞かれたくないという心の表れなのか、イヤホンがジャックに差し込まれている。跡部はイヤホンを耳へ捩じり込むと、すぐさま再生ボタンを押した。


『来たら誰も居なくて驚いたかしら? きっと景吾は別れ話をしかたっかんでしょうけど、もう十分わかっているからその必要はないわ。恨んでもいない。……でも、本当のことを言うと胸が痛いの。もっとちゃんと貴方に好きだと伝えていれば良かった。邪魔になるかしら? なんて良い子ぶってないで、試合の応援に行けば良かった。ちゃんと私のことを見てって、他の子のところへ行かないでって我儘を言ってみればよかった。そんな想いがあるのは事実だわ。それでも、私自身あの子は良い子だと思うし、景吾には幸せになって欲しいと思っているのよ? どうか幸せに。……じゃあね、景吾』


 レコーダーからはの声が溢れてくる。今まで聞いたことのない彼女の本音。そして、別れの言葉。どう考えても“また明日”の類ではないだろう。


「どういうことだ?」


 跡部は手元のレコーダーを弄り、録音記録がもう一つあることに気がついた。
 今のは冗談、などという甘い言葉を期待しているわけではないが、少なくとも何らかのヒントになるに違いない。
 急いた気持ちでボタンを押せば、次いで耳に飛び込んできたのはの声ではなかった。


『成田空港。十九時五十五分発ロンドン行き』


 簡潔すぎる内容。愛想もへったくれもない平坦な声は日吉のものだろう。だが、今は声の主など気にしている場合ではない。わざわざのボイスメッセージの後に入っているのだから、それが示すことは明白。
 教室前方に掛けられた時計の長針は、十八時三十分を少し過ぎた辺りに差し掛かっている。行くしかない。決意と共にイヤホンを外そうとした瞬間、微かな呼吸音が続いていることに気が付き、跡部はイヤホンに伸ばした手を止めた。


『……来なきゃ貰いますから』


 跡部の考えを肯定するように、数秒の間を置いて日吉の声が続いた。不遜な言葉が。


「百万年早ぇーんだよ」


 不敵な笑みを湛えて呟くと、イヤホンを外して指輪と共にレコーダーをジャージに仕舞い、跡部は今度こそ教室を後にした。



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