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婚約者からお願いします?
第31話 曇天の霹靂
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景吾とデートをして一週間ほど経ったある日。秋雨が降りしきる中、その知らせは突然もたらされた。
三時間目の授業途中のこと。何故か担任が教室に入ってきた。
一体何事かと教室中の視線が担任に注がれる中、担任は教科担当の教師に何やら断りを入れてから、険しい顔をして私の方へと視線を向けてきた。
何だろう。疑念に首を傾げるとすぐに「、荷物をまとめて来なさい」と、強張った声が私を呼んだ。
窓の外で降り続けていた雨音が、急に大きくなった気がした。
妙な既視感に胸の奥がぞわりと粟立つ。
いつだったっけ……。そうだ。あれは、小学三年生の梅雨の頃だった。今日みたいに授業中に先生が来て、父さんと母さんが事故に遭ったって。
そういえば、あの日も雨が降っていた。窓に叩きつける雨の葬送曲を覚えている。
「」
再度声をかけられて古い記憶から呼び戻された。
「……、はい」
嫌な予感に胸を占められつつも、机に広げていた教科書やノート、机の中の荷物を鞄に詰め込み、私は担任へと駆け寄った。
教室中の視線が集まるのを感じながら教室を出ると、担任は「落ち着いて聞けよ」と私の両肩に手を乗せ、怖いくらいに真剣な表情を浮かべてみせた。
心臓がドクリと波打つ。
「御祖父さんが倒れて病院に運ばれたらしい。タクシーを呼んであるから、それに乗って病院に向かいなさい」
担任の言葉は耳を素通りした。
確かに聞いたはずなのに、何を言われたのか理解できなかった。ただ心臓だけはやたらと鼓動を速めて痛いくらいだ。
思わず胸を押さえて蹲るが、担任が「大丈夫か?」と気遣うように顔を覗き込んできたので、無理矢理顔を上げて無言で頷いてみせた。
「……先生」
「ん?」
「今、何て……」
本当は聞き返したくなんてなかったけれど、聞かないわけにもいかずにそう問い直す。
担任は一瞬怪訝な表情を浮かべたものの、気が動転していると判断したのだろう。噛んで含めるようにゆっくりと言葉を紡ぎなおした。
おじいちゃんが倒れた、と。
理解した瞬間走り出していた。
授業中の廊下を猛然と走るのだから、気づいた生徒たちが教室の中から何事かと言わんばかりに視線を投げてくる。だけどそんな視線なんて一つも気にならないくらいに、私は焦っていた。
何度も空回りそうになる足を動かし続け、階段を転がるように駆け降り昇降口へ向かう。素早く靴を履きかえると、土砂降りの雨の中に身を投じ、そのまま校門まで疾駆して停まっていたタクシーに乗り込んだ。
わずかな距離の間に濡れた髪からポタポタと雫が伝い落ちる。
ああ、早く行かなきゃ。
「あの……」
水音に急かされるようにして行き先を告げようとして、私は口ごもった。
病院に運ばれたとは聞いたものの、どこの病院なのかまで聞いていないことに気が付いたのだ。すると私の代わりに口を開いたのはドライバーさんだった。
「行き先は金井総合病院で変更はありませんか?」
バックミラー越しに柔らかな視線と目が合う。
事前に行き先を担任から聞いていたのだろうか?
戸惑いを含みながら小さく頷くと、ドライバーさんは滑らかに車を発進させた。ゆっくりと窓の景色が流れ始めるのを横目で見ながら、私は泣き出したい情動に襲われていた。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
不安で胸が押しつぶされそうで、流れそうになる涙を堪えて外を睨みつける。信号でタクシーが止まり、歩行者用の青い信号が色鮮やかに飛び込んできた。
おじいちゃんに何かあったら、私は――……私は――――…………。
ヒトリニナッテシマウ。
青だった信号が点滅して赤に変わる。その瞬間、胸の内であふれた言葉に私は絶句した。窓に映り込んだ自分と呆然と見つめ合う。
私は自分の心配をしているの?
苦しんでいるかもしれないおじいちゃんのことじゃなくて、これからの独りになるかもしれない自分のことを考えて不安になっている?
浮かんできた疑問に「違う」なんて言えなくて、私は窓の中の自分から目を逸らして俯いた。ポタリと頬を伝って落ちたのは水滴だったのか、涙だったのか。自分でもよく分からなかった。
車が止まったのはそれから暫く経った頃だった。
料金は後で担任から受け取ると言ったドライバーさんは、担任の元同級生らしい。道理で色々と融通が利くわけだ。もしかすると道中何も話しかけて来なかったのは、担任から少なからず事情を聞いていたからなのかもしれない。
そっとしておいて貰えたことに素直に感謝しながら、礼を言ってタクシーを降りた。大きな病院故に、タクシーは病院の出入り口付近に乗り付けることが出来たらしい。すぐ目の前に自動ドアの透明な硝子が見えた。
悩むのも考えるのも、ついでに嫌悪するとしても全部後でいい。
どちらにせよ、おじいちゃんに無事でいて欲しいという気持ちに嘘偽りはないのだから。
そう言い聞かせて、受付を目指して自動ドアをくぐる。
はやく、はやく、はやく。
「あ、ごめんなさい」
向こう側から歩いてきた人と肩が接触し、咄嗟に頭を下げる。
気が急いて、いつの間にか小走りになっていたらしい。
今度はぶつからないようにしなくては。
再び歩き出した私は、この時の衝撃で、適当に閉じていた鞄から零れ落ちたものがあることに気づくことはなかった。