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小指の糸が朱に染まる迄

「ワオ、動物に喝上げされてる子なんて初めて見たよ」

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 まさかまさかの展開だけど、風紀委員長さんを引き連れてサクラちゃんの元へ向かうことになった。ぜえはあと息を切らしながら必死で走る私とは違い、風紀委員長さんは涼しげな顔で走っている。
 シフォンくんが私に配慮して走ってくれているおかげでなんとか走れているけど、風紀委員長さんにとっては当然遅いみたいで、時折「もっとはやく走れないの?」と言わんばかりの視線が向けられる。ごめんなさい。無理です。でも頑張る。

 必死に足を動かして暫く経った頃。シフォンくんの後を追う私たちは、並盛神社の鳥居をくぐり、参道を右に逸れ、鎮守の杜と呼ばれる木々の間を突き進むことになった。落ち葉のザクザクとした音が、無言で走る私たちの沈黙を埋めるように響いている。


「ワオン!(もうすぐだよ!)」


 ちらりとこちらを振り返って鳴いたシフォンくんに返事をする前に、彼の足は速度を落とし、目的地にたどり着いたことを知った。


「サ、サクラ……ちゃ、ん?」


 息も絶え絶えなまま、木の根元で背中を丸めて蹲るサクラちゃんを覗き込む。その傍らには吐瀉物があり、彼女が吐き出したものだと分かる。
 ど、どうしよう。とにかく少しでも楽になればと背中を摩ろうとしたけど、痛がるような素振りをしたのでやめた。ただの風邪って感じじゃなさそうだ。


「……ねえサクラちゃん、どうしたの?」


 本人に聞いた方が早いだろうと声をかけてみたけど、話す気力もないみたい。確か此処から動物病院までは徒歩十五分。犬一匹抱えて運ぶのは骨だが、ここは気合の入れどころだ。


「サクラちゃん、痛いかもしれないけど少し辛抱してね? ってわけで風紀委員長さん、私これから……」

「病院に行くんでしょ? 早くしなよ」


 サクラちゃんを抱え上げようとした私の腕が彼女を抱き上げる前に、風紀委員長さんがサラッとサクラちゃんの体を持ち上げた。抱え方がうまいのか、痛いは痛いんだろうけど、ひどい痛みは感じてないみたいに見える。少なくとも、私がフラフラしながら抱えて運ぶより、遥かに苦痛を与えなくて済むに違いない。


「はい!」


 さっさと歩き出した風紀委員長さんの後を追って、私もシフォンくんと一緒に歩き出す。
 普通の人が一笑に付してしまう私の力を信じてくれようとしたり、こうしてサクラちゃんを病院に運んでくれたり、風紀委員長さんはいい人なのかもしれない。
 ヒバードちゃんが好いているのも理解出来る気がする。ん? そういえば、いつの間にかヒバードちゃんの姿が見えない。思わず周囲を見渡してみるけど、やっぱり姿はなかった。


「ヒバードちゃん?」


 声に出して呼んでみる。返事はない。


「あの子なら動物病院の裏にある院長の家に行かせたよ」

「?」

「並盛動物病院は木曜休診だからね」


 休診日。言われるまでまるっきり思いつかなかった。このまま私一人でサクラちゃんを運んだところで、病院の前で立ち往生してたんだ……。
 つまりサクラちゃんが苦しむ時間も長引いたかもしれないってことで、風紀委員長さんが一緒で本当によかった。
 それにしても、動物病院の休診日まで把握してるなんて凄い。並盛は風紀委員が仕切っているという噂は、あながち嘘ではないのかもしれない。
 思わず前を歩く風紀委員長さんの背中を見ながら考える。


「五月蝿いよ」

「ふへ? 私……何か喋ってました?」


 私の記憶が確かなら、口を開いた覚えはないんだけども。もしかして、無意識に何かを垂れ流してた、とか?
 だとしたら一体何を喋ってたんだろう?
 普通に考えれば今考えてたこととか? いやいや、もしかしたら全く関係ないことだったりするのかもしれない。


「視線」

「?」


 ちょっとだけわくわくしながら答えを待っているとそんな答えが返された。
 ううん?


「えっと、すみません。私そんなこと言ってたんですか? 思ったより字数は少ないみたいですけど、よっぽど大きな声でも出てたんでしょうか?」


 無意識で思考と全く関係のないことばを大声で口にするなんて。あれ、私病気なんじゃないかな? この場合、何科に行けばいいんだろう?


「ワン、ワワンワン……(いや、そういう意味じゃないと思う……)」

「違うよ」

「え?」

「さっきから見過ぎだよ。そんなに咬み殺されたいのかい?」

「めっそうもないです!」


 な、なるほど。てっきり変な病気にでもなったのかとばかり。危うく病院に行くところだった。


「じゃあ、一体何?」

「いや、あの、並盛の風紀委員さんたちは動物病院の休診日まで把握してて凄いな〜とか、風紀委員長さんが一緒でよかったな〜とかとか思ってたら、思わず凝視しちゃってました」


 特に隠す必要も感じなかったから、さっき考えてたことをそのまま伝えてみることにした。すると、風紀委員長さんは居を衝かれたといったような顔をした後、何故か顔を顰めてしまった。
 何か気に障ることでも言ってしまったのだろうか?


「風紀委員長さん?」


 不安になって呼びかけてみる。


「……変な子」

「え?」

「何でもない。それより前を見なよ」


 促されるまま見てみれば、もう並盛動物病院は目の前だった。休診日だからかガラス戸にはロールカーテンが降りてるけど、ヒバードちゃんが知らせてくれたって話だし、もう先生は来ているかもしれない。
 風紀委員長さんはサクラちゃんを抱えて両手が塞がっている。シフォンくんは犬だから扉は開けられない。となれば、これは私の役目に違いない。
 小走りで風紀委員長さんの横を抜け、病院の扉に手をかける。どうだ、と思い切り引けば、扉は抵抗なく開いた。
 私はロールカーテンを上げるべく横でブラブラしていた紐に手をかけた。ロールカーテンはスイスイ上がり、今や誰を拒むこともない。
 さて後は、と。


「すみませ――ん!!」


 静かな院内に私の声が響き渡り、診察室と思しき扉が開いた。中から顔を覗かせたのは三十代半ばの男の先生。
 先生は風紀委員長さんの学ランにつけられた“風紀”と書かれた腕章に顔を引きつらせたものの、その腕の中にいるサクラちゃんの姿を認めた瞬間、表情を一変させた。たぶん医師の顔ってやつだと思う。


「こっちに連れてきてくれるかい? 私がその子を受け取っても、すぐに診察台に寝かせることになるからね。負担は出来るだけ最小限にしてあげたいんだ」


 先生の説明に納得したのか、風紀委員長さんは何も言わずに招かれた方へと歩いていく。私とシフォンくんも慌てて後を追った。


「ここにお願いできるかな?」


 示された診察台にサクラちゃんを乗せると、風紀委員長さんは相変わらず無言のまま身を翻し、入ってきた扉の方へと歩き出した。
 行ってしまう前にこれだけは伝えたい。そう思うと同時に唇は勝手に動き出していた。


「あの、ありがとうございました!」

「約束通り、今回は見逃してあげるよ」


 去っていく背中に頭を下げれば、そんな言葉が返ってきた。それはつまり、私の言ってたことを信じてくれたってことで。私は胸の奥がカアッと熱くなるのを感じながら、顔を上げた。当然もうあの背中は無かったけれど。
 こみ上げてくる感情に揺さぶられながらも、それを振り切ってサクラちゃんへと向き直る。だって今はもっと大事なことがあるから。


「クーン……(サクラ……)」


 不安そうに妹の名前を呼ぶシフォンくんの背中を撫でながら、私は祈るような気持ちで診察台を見つめ続けた。




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