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小指の糸が朱に染まる迄

「ワオ、動物に喝上げされてるなんて初めて見たよ」

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 集中が切れたのを感じ、僕は目を通していた書類から顔を上げた。ずっと下を向いていて固まった首を回して腰の筋を伸ばす。背骨が鈍く軋む音と、ウェストミンスターの鐘の音が耳へ届いたのはほとんど同時だった。正面の壁に掛けられた時計の針は、十二時五十分を指している。どうやら昼休みに突入したらしい。

 そういえば――と、視線を巡らせるが、いつもならとっくに来ているはずの小鳥の姿が見当たらない。珍しいこともあるものだ。

 特注の事務椅子を半回転させて半開きの窓を見遣れば、硝子越しに青く澄んだ空が目に飛び込んできた。陽気にでも誘われたのか、校舎からは弁当を持った生徒たちがチラホラと外に出てきている。
 そんな斑な人波の中に見慣れた黄色を見つけて、視線が留まった。


「あんなとこに居る……ん? あれは……」


 先導するように飛ぶ黄色い鳥を追って、一人の女子生徒が小走りに駆けて行く。その姿に数日前に会った女子生徒の姿がピタリと一致した。
 あれ以来、あの公園で見かけることはなかったけど、小鳥は相変わらず朝姿を現さないまま。大方場所でも変えたんだろうけど。
 どうやら彼らは校舎裏へと向かっているらしい。

 相手は草食動物だ。わざわざ追うような存在ではない。頭ではそう思いながらも、体は自然と動き、気づけば窓枠に足を掛けて校舎の外へと飛び出していた。


****


 走り去った影を追って校舎裏へ辿り着くと、曲がり角の先から女子生徒らしき声が聞こえてきた。


「ちょっと待ってね、今いくら持ってたっけ」


 どうやら喝上げされているらしい。しかも女子生徒は唯々諾々と従っているようだ。
 その様子に、無意識にがっかりしている自分が居た。
 相手が草食動物だってことくらい分かっていたはずなのに、一体何を期待していたのかと首を傾げる。


「……意味わかんない」


 考えてみても答えなんて出なくて思考を打ち切った。
 このモヤモヤごと咬み殺してしまえばいい。
 曲がり角の先へと踏み出す。が、拓けた視界の先に広がる光景に、僕は目を瞬いた。そこには人間は彼女しか居なかったのだ。
 居るのは黄色い小鳥と――こげ茶色の犬。


「ごめんね、ちょっとお金足りなさそうだから一度」

「ワオ、動物に喝上げされてる子なんて初めて見たよ」


 財布を広げながら申し訳なさそうに頭を下げている女子生徒の姿に驚いて、咬み殺す気は呆気なく消え失せた。何だか調子が狂う。
 僕の声に驚いたのか、ギシギシと音を立てそうな、ぎこちない動きで女子生徒が振り返った。


「……風紀……委員長、さん?」

「うん」

「わ……私、喝上げなんてされてませんけ、ど……?」


 女子生徒はおどおどしながら否定の言葉を返してきた。だからといって僕に怯えているわけでもないらしい。どちらかといえば「しまった」とでも言いたそうな、隠し事が見つかった子供のような表情だ。


「ふ〜ん? じゃあ何してるんだい?」

「びょうい……いえ、えっと」

「嘘ついたり誤魔化したりしたら咬み殺すよ」


 まごついた彼女に一言落とすと、何か言いかけていた口をキツく閉ざしてそのまま黙ってしまった。まさか沈黙が答えだなんて、どこかの漫画みたいなこと言わないよね?
 脳裏を過ぎったのは、以前不要物として没収した漫画の一部。
 校則違反には腹が立ったけど、流し見た内容は中々僕好みだった。


「ワン! ワンワワン!」

「ハヤクハヤク」


 そういえばこの二匹も居たんだっけ。
 ほぼ同時に響いた二つの声にその存在を思い出す。同時に、女子生徒がハッとした様子で犬と視線を合わせ、何を思ったのか深く頷いてこちらに向き直った。小鳥も心得たようにちゃっかり彼女の頭に腰を落ち着けている。


「あの、ですね」

「何?」

「……実は妹のサクラちゃんの具合が悪いらしくて、病院に連れて行って欲しいとシフォンくんに頼まれて」

「は?」


 一瞬何を言われたのか分からず間の抜けた声が漏れた。しかし、目の前の少女は此方の反応に構わず先を続ける。


「病院代が足りるかどうか財布を確認していたんです」

「君、巫山戯てるの?」


 僕の問いに「そんなつもりはない」と、女子生徒は大きく首を横に振った。
 シフォンくんとやらは毛色からしても名前からしても、そこに居る犬の名前だろう。この言い方では、まるで犬とコミュニケーションが取れるかのようだ。
 もちろん動物とコミュニケーションを取れないとは言わない。そこに居る鳥だって少なからず話すし、ロールだって僕の言うことを理解して動くしね。
 でも彼女のは違う。
 妹の具合が悪いだとか、病院に連れて行って欲しいだとか、ましてや頼まれたなんて、ね?
 会話でも出来ない限りそんな情報を得ることは不可能だ。


「まさか会話でも出来るって言うつもりかい?」


 馬鹿馬鹿しいと思いながらも尋ねてみると、あっさり「はい」という肯定の返事が返ってきた。
 嘘と言い切るには、女子生徒の表情は真剣そのもの。若干頭の上の鳥のせいで間が抜けて見えるけど、とりあえず適当な事を言って誤魔化そうとしてるわけじゃなさそうだ。
 まあ、幻術があるくらいなんだから、そういう特殊能力を持ってる人間がいたって可笑しくはない。


「そう」

「……へ? 信じるんですか?」

「巫山戯てるわけじゃないってことはね」

「は、はあ」

「ワン!」

「……って、のんびりしてる場合じゃなかった。とにかくそういうことなんで私はこれで。行こうシフォンくん!」

「ワフッ!」


 そう言い残して駆け出そうとした彼女の腕を掴んで引き戻す。


「ちょっと待って。まだ授業が残ってるはずだけど?」

「いや、でも、命に関わるかもしれないし……このまま放ってなんておけません」


 躊躇いながらもしっかりと主張してくる様は、沢田綱吉を彷彿とさせる。この子も案外草食動物じゃなくて小動物の類なのかもしれない。
 僕は少し考えて口を開いた。


「……なら、僕もついて行く。君の言うことが嘘だったら咬み殺すけど、もし本当だったら今日のことは特別に見逃してあげるよ」


 すると女子生徒は一瞬目を瞠った後、何が嬉しいのかニコニコと笑って頷いてみせた。
 意味がわからず眉を潜める。


「あ、別におかしくて笑ったんじゃないですよ? ただちょっと嬉しくて」

「嬉しい?」

「だってまさか信じてもらえるなんて思ってなかったから」

「まだ信じてないよ」


 釘を刺すように言ってみたけど、女子生徒は気にした風もなく笑みを崩すことはなかった。


「信じようとしてくれただけで十分嬉しいんです。じゃあシフォンくん、今度こそ行こう!」

「ワワン!」


 威勢良く返事した犬の鳴き声を合図に、しなやかに駆け出した焦げ茶色を追いかけ、僕らもその場を後にした。




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