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どこの学校でも、放課後というのは賑やかだ。運動部の掛け声や帰宅の途につく学生の声を背景に敷き、俺は校門で女に言われた通りにテニスコートに向かって歩いていた。
本来なら見合いの翌日にでも訪れたかったが、生憎部活を引退したとはいえ引継ぎは残っているし、後輩指導もある。加えて生徒会の引継ぎに文化祭に向けての準備。中々時間が取れずに今日まで来てしまった。
制服が違うせいか、それとも他の理由なのか、いつも以上の視線を浴びながらも俺の足は順調に目的地へと近づいている。テニスコートの場所は、以前練習試合で訪れた時にインプット済みだ。
コートに近づくにつれて、彼方此方から聞こえる部活生の声にテニスボールの打球音が混ざり始める。耳心地の良いその音に自然と口元が弛むのは、テニスプレイヤーの性なのかもしれねぇな。と胸中でひっそりと独りごちる。
それにしてもあの女どこかで……。
校門で会った女の顔を、どこかで見たような気がして首を傾げた。喉元まで出掛かっているような、中途半端な消化不良感。
どこだ? どこで見た?
「跡部?」
どうやら自問自答しているうちにコートに着いたらしい。
声のした方へと視線を投げると緑色のフェンス中から、青学の天才不二周助が怪訝な表情を浮かべて俺を見ていた。……いや違うな。不二だけじゃねぇな。
そのまま視線を巡らせれば、コートの中に居た全員が此方に視線を向けていた。今の今まで響いていた甲高い声援も、部活に励む部員の掛け声も、耳心地の良い打球音も、ピタリと止まっている。
「どうしたんだい? 君がうちに来るなんて珍しいね。手塚に用事でも?」
静まり返った空気をいち早く壊したのは不二の柔らかな声。それを皮切りに、部員は活動を再開し、再び喧騒が戻ってくる。
もっとも、メス猫どもの視線はそのままだがな。
「……いや、人を探しててな」
「ここに居るってことは、探し人はテニス部なのかな?」
笑顔で探りを入れてくる不二に無言で首を振った。
「こっちに行ったと聞いたんだが……居ねぇな」
それとなく周囲を見回してみたが、一見したところフェンスの周りに居るメス猫どもの中にも、近辺にも、の姿はない。
「へぇ〜、女子なんだ?」
「アーン?」
「ストーカーは感心しないよ跡部」
「な゛!?」
サラリとこぼされた言葉に声を上げると、近くに居た菊丸がすぐ傍まで寄ってきた。
「にゃににゃに? 跡部がストーカーってほんと、不二?」
目を輝かせ、楽しげに声を弾ませる菊丸に頬が引き攣る。本来なら頭を鷲掴みにしてやりてぇところだが、今はフェンスが邪魔で叶わない。チッ。
「なわけねぇだろうが!」
代わりとばかりに派手な音付きでフェンスを掴み、ぐっと顔を寄せた。途端に少し離れたところから「キャー!」と黄色い声が飛んできたが、無視することにした。メス猫どもの意味不明な鳴き声は今に始まったことじゃねぇ。
煩そうに耳を塞ぐ菊丸の横で、不二が口の端を吊り上げた。
「なら、誰を探してるんだい?」
言外に答えなければストーカー扱いするけど、という言葉が滲んでいる。好きにさせれば良いと思う反面、何としても避けたいと思うプライドが心中でせめぎ合う。
重なった視線を逸らすことも出来ず、無言で見つめ合うこと数秒。俺は心の中でプライドが軍配を上げるのを感じた。
「……俺様の婚約者だ」
“今のところは”と続く言葉は呑みこむ。
「婚約者〜!?」
「まぁ跡部だし。居ても不思議じゃないけど」
「誰? 誰?」
「それは僕も気になるな。それに、相手がわかれば何か助けになれるかもしれないし?」
二人分の視線が突き刺さる。いや、二人以外からも。恐らく菊丸が叫んだせいだろう。
婚約者の存在なんざ別に珍しくもねぇだろうに。
内心で悪態をつきながら俺は嘆息した。
「……だ」
それは校門でも散々口にした名前。
どうせ知りやしないだろうという予想に反して、不二と菊丸は目を瞬かせながら顔を見合わせた。
「知ってるも何も」
「クラスメイトだにゃ」
奇異な縁である。
「そうか。こっちに来たと聞いたんだが」
「う〜ん……僕は見てないけど」
「俺も見てないよん! にしても、意外だにゃ〜。って婚約者とか居るような雰囲気じゃないじゃん」
「う〜ん、確かに。それに彼女……前にクラスの女子に『将来は幼馴染みたいな人と結婚したい』とか言ってたけれど、君が彼女の幼馴染……ってわけじゃなさそうだね」
どうやら無意識のうちに眉間に皺が寄っていたらしい。不二に「寄ってるよ」と眉間を指され、ようやく己の表情に気付く。
苦笑を浮かべる不二と、ニヤニヤ薄気味悪く笑う菊丸に、更に眉間の皺が濃くなるのを感じていると、コートの方から緑色のジャージを着た男子生徒が一人こちらに走り寄ってきた。
「不二先輩、菊丸先輩、次お願いします!」
「ほいほーい!」
「今行くよ。悪いね跡部、これから模範試合なんだ」
結局こちらの事情を聞かれただけな気もするが、全く収穫がなかったわけでもない。
「いいものを観るのも勉強ってわけか。邪魔したな」
「もう帰るのかい?」
来た方向へと踵を返すと、すかさず不二の声が飛んできた。
「ここには居ねぇみたいだからな」
じゃあなと片手を上げ、俺はコートを後にした。
今更校門で張ったところで、既に帰ってしまった可能性の方が高い。コートと校門を行き来する道は何も一つじゃないのだから。
「無駄足――」
……でもねぇな。
自分で落とした言葉にすぐさま訂正を入れる。
思い出すのは数日前の出来事。
見合いの数日後。俺は音楽室に向かう途中ですれ違った日吉を引き止めた。
「を知ってるか?」
確信はなかった。だが「わかし」なんて名前が、そうそうありふれているとも思えなかったのだ。
日吉は僅かに眉根を寄せて「知りませんよ」と素気無く答えた。それだけなら普段と変わらない光景であり、気に留めることではないだろう。だが、日吉は眉間に寄った皺をほんの一瞬で消し去った。まるで見つかってはならない秘密を隠しているかのように。
この様子じゃこれ以上は訊いても答えやしないだろうとそれ以上の追求はしなかった――が、もしかすると日吉が隠したがってた秘密ってやつが、幼馴染という繋がりなのかもしれねぇな。
帰宅部生の帰宅ピークが過ぎたのか、校門付近の人の出入りはだいぶ疎らになっていた。空がゆっくりと橙色に侵食されていく。
だいぶ日が暮れるのも早くなったなと空を仰ぎながら歩いていると、真横を何かが駆け抜けていった。視線を戻すと女子生徒が一人、制服を翻しながら校門へ向かっている。翻る緑。それは先程まで思い出そうとして思い出せなかった記憶。
「そうか、あの時の……」
今日校門での場所を教えたあの女は、あの時氷帝生を助けていた少女に似ている気がしたのだ。
「……いや、気のせいか」
流石にそんな偶然はねぇだろうし、遠目から一度目撃しただけなのだ。人違いの可能性の方が断然高い。何より、仮にとはいえ婚約者に会いにきておいて、他の女が気になるなんてどうかしている。
馬鹿な考えを振り払うように頭を振る。頬を撫でる風は生温く、未だ夏の名残を色濃く残していた。