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あれは確か、春。三年生になってすぐのことだった。
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体操服が入った袋が少し邪魔だけど、本を数冊買うくらいなら問題ないだろう。今日は新刊発売日だし、駅前の本屋に寄って帰ろうと、うきうきした気分で帰路を辿る。
楽しみにしている漫画の新刊が発売されるということもあって、私のテンションは常より高めだ。小さく鼻唄を口ずさみながら、改札を抜けて駅前へと足を踏み出す。
「ん?」
通り過ぎた路地が気になって足を止める。
路地裏、と言うほど暗くはないけれど、表通りほどの明るさはない細い道だ。普段なら別に気にすることはないのだけれど。
「早く出せよ!」
「おっさん金持ってんだろ?」
今や懐かしい《おやじ狩り》というやつだろうか?
声に引き寄せられるように脇道をのぞき込む。
あ〜、やっぱり。
視界に飛び込んできたのは、案の定とでも言うべきなのか、数人の若い男性に囲まれた身形の良さげなスーツ姿の男性。たぶん囲んでる男たちのせいで、はっきりと姿は見えないのだ。年齢も分からないけれど、彼らの言葉を借りれば《おっさん》なのだから、彼らよりは上なのだろうと推測出来る。
「って、のんびりしてる場合じゃないよね」
放っておくのも寝目覚めが悪い。相手は四人、か。正直複数人数を相手にするのは、いくら心得があってもきつい。体格差は明らかで、二人がかりで動きを封じられれば、抵抗などとても出来ないのだから。
こういう場合は相手を倒すことより、逃げ切ることを優先させるべきだろう。まずはどうにもならなかった時の為に、携帯で警察を呼べるようにあらかじめ番号を押し、後はコールボタンさえ押せば掛かるようにしてポケットに突っ込んでおく。
「よし!」
気合いを入れ、足音を立てないように彼らに近づく。横を通り過ぎた人に、訝しげな視線を投げられたけれど気にしない。
ゆっくりと慎重に距離を詰める。
「早くしねーと殴るぜ、おっさん?」
「そうそう、痛い目見る前に出せっ――!?」
手始めに意気揚々と言葉を紡いでいた男の膝裏を、足裏で全力で蹴り、グラリと体が傾いだ所で、隣に立っていた男に体操服の入った袋を思い切りぶつける。もちろん、身バレはごめんなので、決して紐は手から離さない。
「ぶっ」
見事に顔面に当てることに成功。これで道は開かれた。まだ状況が飲み込めていない男たちを無視して、彼らの鴨になっているスーツ姿の男性の手を引っ掴み、全速力で駆けだした。
目指すは人通りの多い表通り。距離はそうないし、人混みに紛れれば何とかなるはずだ。
「待てごらぁっ!」
後ろから聞こえる声と、数人分の足音がバラバラと耳に入る。
待てと言われて待つ奴が……というのは、もうお約束だろうと思うのだが、おやじ狩りなんてのをやっていただけあって、全体的に古いのかもしれない。
それにしても、ちょっとしつこ過ぎやしませんか?
表通りに入ってもまだ追ってくる男たちにげんなりしながら、自分は自分の腕を辿って、助けた男性に視線を向けた。
「大丈夫で……すか?」
驚いた。
連れ出す時は顔なんか見てなかったから気づかなかったけど、とんでもない美形だ。アイツ等が《おっさん》だなんて言うから、てっきりもっと年輩の男性だと思っていた。
これだけ連れ回しているのに、息切れ一つしてないって、おっさんでもなんでもないと思うんだけど。
「心配いらないよ。それに、もう足を止めても大丈夫」
大丈夫と言われても、まだ後ろにアイツ等の姿は見える。
「大丈夫だから」
再度促す男性の声には妙な威厳があって、気づくと私の足は止まっていた。
「ようやく追いついたぜ!」
「覚悟は出来てんだろうな!」
「……はぁ、はぁ」
「……っ」
どうも私が攻撃を加えた二人は、四人の中でも体力も多めな血気盛んタイプだったらしい。きっと攻撃したのが他の二人なら、彼らは攻撃された仲間を笑って、ここまでしつこく追いかけては来なかったに違いない。いや、あくまでも、そんな気がするってだけだけど。
それにしても、やっぱり止まったのは悪手だったのでは?
思わず隣に立つ男性に視線を流すと、何故かにこりと微笑まれた。次の瞬間、眼前に黒い影が二つ割って入った。
黒いスーツを着た……背中? そう思った時には、二つの影が不良たちを伸していた。
「遅くなって申し訳ありません」
「お怪我はありませんか?」
体格の良い二人の男性。彼らは隣に立つ男性のSPらしい。
三人のやりとりは、どこか別世界の出来事のようで、何だか頭が痛くなってきた。指先でコメカミをぐりぐりと押して平静を保つ。
さて、これからどうしよう。
助けたつもりが、私が出しゃばったせいで余計な体力使わせちゃって、あげくSPさんから引き離してしまった……とかそういうあれなんじゃない? 怒られるくらいで済めばいいけど。
思考が暗い方へと沈んでいく。
すると、隣でSPさんと話していた男性が、こちらを向いた。不意打ちに驚き、思わず肩が跳ねる。
「助けてくれてありがとう」
予想外の言葉に目を瞬く。
「とんでもないです。とっさに体が動いてしまっただけですし……。それより、何だか余計なことをしてしまったようで、却ってご迷惑をかけたんじゃ?」
「君が恐縮する必要はないんだよ」
よほど情けない顔でもしていたのか、男性はSPさんたちと顔を見合わせて、小さく笑った。
「だけど、どうして私を助けようと思ったんだい?」
「どうしてって……」
言われても困る。
正直、そんなにはっきりとした理由などないのだ。今回だって、何で助けようと思ったのか、既に思い出せないくらいだし。
「う〜ん……見て見ぬ振りするのは寝目覚めが悪かったから、ですかね」
つまり自分自身のためってわけだ。
「だけど相手は男四人。怖くなかったのかい?」
「怖い……と言うより、不利だなと。だけど、警察呼べる準備はしておきましたし」
ははは、と乾いた笑みを浮かべながら、携帯電話をポケットから取り出して、男性に見せた。
「なるほど。無謀な子なのかと思っていたけれど、君は勇敢なお嬢さんのようだ」
液晶画面に映し出された《110》の数字を見て、男性は満足そうな笑みを浮かべた。男性にこんなことを言うのはおかしいかもしれないけれど、それこそ大輪の薔薇のような笑みを。
「お車の準備が出来たようです」
「わかった」
いつの間にかSPさんが一人消えており、代わりに一台のリムジンが滑り込んできた。そして今更だけど、通りの人にす〜ごく注目されてる。それも仕方がないのかな? SP付きってだけでも珍し上に、この人驚くほど美形だしね。
男性はSPを先に車の方へ行かせて、こちらに向き直った。
何だろう?
「助けてくれた礼をさせてくれないかい?」
添えられた柔和な笑み。子供を見守るような慈愛を感じる笑みに、もしも父さんが生きてたらこんな感じなのかな、なんて。
写真を見た限りだと、とても同じタイプだとは思えなかったけれど、子を持つ親特有の視線ってあるんだよね。友達の両親とか、若の両親とか見てるとそう思うんだ。その度に羨ましさを覚えたり……って、いけない。
逸れかけた思考を戻して背筋を正した。
「お気遣いありがとうございます。けど結局助けて下さったのはSPの方々ですし、お礼は是非あの方々に」
「……そうか。なら、名前を聞いても構わないかな?」
何で? とは思ったけれど、怪しい人にも見えなかったので素直に頷く。
「です」
私が名乗ると男性は爽やかと言うより、こう……悪戯を企むような子供っぽい笑みを浮かべて、車の方へと踵を返した。
あんな表情もするんだな〜と思って不意に気付く。
「あ……そう言えば名前聞いてないや」
車内に消えていく背を目で追いながら独りごち、まぁ、もう会うこともないかと思いなおした。男性が乗り込み、後部座席の扉が閉まるとすぐに、スモークの貼られた窓が降りた。
ひらひらと振られる手。私は走り出した車に手を振り、走り去る姿が見えなくなるまで見送った。
通りの人の目も、既に散り、ようやく日常が戻ってきたことに安堵する。
さて、本屋に行くか。グッと腕を天に突き上げ伸びをすると、私は本来の目的地である本屋へと足を向けた。
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これが“あの日”の全て……少なくとも私の記憶では。