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扉を開けた跡部さんは、跡部さんのお父さん越しに私を見つけるや否や表情を険しくした。
「お前は……押し掛けて来たのか?」
刃物じみた鋭利な視線を向けられて、意図せず肩が跳ねてしまう。
そうだ。跡部さんは私の正体を知らない。だとすれば、この間自分の学校で会った他校生――茶倉鞠花が、家まで押し掛けたようにしか思えないだろう。
心の中で「誰がそんな追っかけみたいな真似を」と思いはしても、実際家に居て、尚且つ嘘をついてしまっている状態では何も言い返せるはずが無い。しかも押し掛けて来たこと自体は事実だ。それが跡部さん本人が目当てでなくとも。
どう誤魔化せば……いや、誤魔化せるわけがない。
何しろこの場には跡部さんのお父さんも居るのだ。
予想通り、跡部さんのお父さんは私と跡部さんを見比べて、怪訝な顔をしている。
「その……」
答えようもなく口篭ると、跡部さんのお父さんは、私が跡部さんの言動に怯えていると判断したらしい。やれやれといった様子で肩を竦めると、恐れていた一言を口にしてしまった。
「自分の婚約者に随分な態度だな、景吾」
決定的な言葉。
目を見開く跡部さん。その姿に居た堪れず、俯く私。
そこで初めて、跡部さんのお父さんも様子がおかしいと気付いたようだ。
黙りこくったままの私たちに何を思ったのか、跡部さんのお父さんは「私は居ない方が良さそうだな」と言い残して、颯爽と部屋から出て行ってしまった。
バタンと扉が閉まった音を合図に、第一声を発したのは跡部さんだった。
「どういうことだ?」
見なくとも目が据わっているとわかってしまうほど低い声。
多少なりとも、私だって友達と言い合いも喧嘩もする。けど、ここまで人を怒らせたことなんてあったかな。若も怒ると怖いけど、大抵私が無茶をして心配かけた時とかがほとんど。ここまで混じり気のない純粋な怒りの感情を向けられたことなど、たぶんないと思う。
正直なところこの段階で破談は確実なんじゃないだろうかと思ってしまうわけで、今すぐこの場を逃げ出して全て無かったことにしまいたい。
「答えろ」
などと、私がぐだぐだ考えているうちに、跡部さんの怒りボルテージは上がる一方。
何か言わなければいけないのは確かだろう。
「あ、の」
どうしてだろう。先刻まで紅茶を頂いていたはずなのに、喉奥が乾き、声がしゃがれる。言い直そうと息を吸ったら、「ひゅう」と情けない吸気がもれた。カラカラの口の中には唾液一つ残っちゃいない。
それでも何か言わねば解放されないのだから、覚悟を決めるしかないのだ。
空唾を呑み込み、飲みかけの紅茶を掴み上げた。チラッと見えた跡部さんの訝しげな視線に内心たじろぎつつも、一気に喉へ流し込む。これで声はまともに出るはずだ。
今までのことを振り返って、何から話そうか考え、考え、考えた結果、私の口から出たのは「すみませんでした」という謝罪の一言だけだった。
最早何から話せばいいのかもわからないし、結局騙したことも事実だし、謝る以外の選択肢なんてきっと最初からなかったんだ。そう思った。
跡部さんは何も言わない。
許すも、許さないも、何も。
焦った私は、頭を下げたまま慌てて思考を巡らせる。
「婚約の件は私の方から取り下げてもらうので――」
その先が出てこなかった。
許してくださいなんて言えた立場じゃないし、無かったことにしてくださいなんて、それも私がどうこう決める問題でもない。率直な感情としては「もう会いません。迷惑かけません。帰らせてください」に尽きるけど、それを言ったらまずいことくらい私にもわかる。
自分の思考の中で勝手にぐるぐるしていた私は気付かなかった。
「俺が聞いたのは『どういうことだ?』だ。質問に答えろ」
その謝罪すら、結局は早く楽になりたかっただけの自己満足なんだって。
私は頭を上げた。ジッと此方を見据えている氷のような目と視線が合う。
「最初から、話しますね」
肺がはち切れそうなくらい息を吸って、私はとつとつと見合いの話がもたらされた日から今日までのことを話しはじめた。
ある日突然見合いの話が舞い込んできたこと。おじいちゃんから断れないと言われたこと。それでも私は恋愛結婚がしたかったってこと。演劇部の友達に演技練習を受けたこと。見合い当日、練習した通りに演技をしていたこと。そしてそれが始めから必要なかったと気付き、余計なことをしたと後悔したこと。けれど途中で暴露するより、このまま嫌われてしまう方が良いと結論づけたこと。
これで断られて終わると思っていた。だけど、跡部さんが青学へ来てしまい、嘘が露呈することを恐れて嘘の上塗りをしたこと。不二や菊丸に跡部さん自身を見るように諭されたこと。自分も跡部さんのことを知ろうと思ったこと。
けれどそこでまた予想外のことが起きる。若ママにお弁当の配達を頼まれたことだ。そこで素で会ってしまい、前に会った時、暗に自分がではないと言ってしまっていた為、嘘に嘘を塗り重ねてしまったこと。
そして、正体を打ち明ける前に、どうして自分が跡部さんと見合いすることになったのかの理由が知りたかったということ。
思い出せる限りの答えを、嘘偽り無く吐き出した。
まるで懺悔。
途中で口を挟むことなく聞いてくれている跡部さんは、同い年なはずなのに大人びて見えた。
「――というわけ、です」
口を開き始めた頃にはドクドクと煩かった鼓動は、話し終えた今、嘘のように凪いでいる。
すっきりした。
そんな感覚だ。
「どうしてだ」
紡がれた声に首を傾げる。
「どうして後悔した?」
それが見合い当日のことだと気付くまでに、少し時間がかかった。
「……私のついた嘘で、跡部さんが傷ついたような……そんな気が、したから」
親しくもない初対面の自分の言葉で傷ついたかもしれないだなんて、もしかしたら思い上がりかもしれない。でも、今思い返してみても、徐々に冷えていく瞳は多少なりとも傷ついていたように思える。
「必要なかったっていうのは?」
「わざわざ嫌われる演技なんてしなくても若の話を聞く限り、親に決められたから……で納得するとは思えなかったから。それに――」
言い淀むと、視線で先を促された。
「都大会の青学戦。あんな試合する人が、適当な決め方はしないだろうなって」
夏の大会で手塚君と対峙した時の試合は、自分の学校の試合ということに加えて、初めて若がレギュラーとして試合に出るかもしれない対戦として、私も見学に行っていたのだ。あの日の暑さもせみの声も、フェンスを囲う歓声も、ボールのインパクト音も、すべて昨日のことのように思い出せる。それほどに衝撃的な試合だった。
跡部さんは黙ってしまい、また部屋に沈黙が落ちた。
時計の秒針が何十回か鳴った後。
「もういい。座れ」
そう言われた。
どこに? なんて聞かずともわかる。
ついさっきまで座っていた椅子に腰を下ろせば、目の前の椅子に跡部さんが腰を下ろした。
恐々と覗き込んだ跡部さんの目からは、既に怒りの色は薄れている。
向かいあって座る状況が、まるであの日の再現のようだ。そんな私の気持ちを見透かすように、跡部さんはこう切り出した。
「跡部景吾だ」
言葉遣いは違えど、これはあの日の跡部さんの第一声だ。
一体どういうつもりなんだろう?
跡部さんの意図が見えずに戸惑う。
けど、恐らく私はこう返すべきなんだろう。あの時と、同じように。