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婚約者からお願いします?

第27話 跡部景吾という男

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本日最後の授業もつつがなく終了。
ホームルームが始まる前にと、鞄に荷物を詰め込んでいると、なにやら教室にいた女子が窓側に集まって騒いでいた。いや、男子も混ざっているから『女子が』というのは少々語弊があるかもしれない。
それに、集まっていたと言っても、皆で輪を作って話してるとかそういうことではなく、それぞれが窓から外を覗いている。
何か珍しいものでもあるのだろうか?
ほんの少しの好奇心で自分も窓の方へ行こうか思案していると、窓の外を見ていた男子生徒の内の一人が身を翻してこちらに近づいてきた。


「結局くっついたんなら報告くらいしてくれてもいいんじゃね? 俺ちょっと寂しいんだけど」


言葉とは裏腹に人懐こい笑みを浮かべて話しかけてきたのは、以前跡部さ――もとい、景吾が青学に私を探しにきたときに誤魔化すのを見逃してくれた佐竹陽斗だった。その後奢った財布の痛みは兎も角として、以降何かと仲良くなったクラスメイトの一人である。


「急に何の話?」

「外にアイツ来てるぜ?」

「アイツって……」


この話の流れから考えられる人物は、悲しいかな、たった一人しか思いつかない。
私は慌てて立ち上がるとそのまま窓側近づき、集団に倣って窓の外へ視線を向けた。既にホームルームが終わった別のクラスか、あるいは違う学年と思しき生徒たちの視線を浴びながら校門付近に立つ人影が一つ。


「あれって氷帝の跡部くんじゃない?」


遠目からなのによく分かりますね、お嬢さん。というか妙なオーラがあるせいか、彼の存在を知っていれば自然と第一候補に挙がるのだろうけれど。


「誰待ってるんだろ」

「そう言えば一時期、跡部様がさんを探しに来たって噂なかった?」


一人の女子生徒の言葉に、窓の外を向いていた数多の視線が一気に私の方を振り返った。


「ねぇさん、あれって跡部くんだよね?」

さんを迎えに来たの?」

「二人ってどういう関係?」

「まさか付き合ってるの!?」


何一つ返事をしていないのに飛躍していく話。どうしたものかと頭を悩ませていると、ガラリと背後で教室の扉がスライドした。どうやら 騒いでいる間にようやく担任が来たらしい。


「あ、ホームルーム始まるみたいだよ?」


笑顔で誤魔化して席へ戻る。背後から刺すような視線を感じた気もしたけれど、そもそも婚約者ならともかく、あくまで仮婚約者。どうなるか分からない関係を触れ回る趣味はないのである。


****


遅れて教室に来た割に、担任には特別な連絡事項は何もなかったらしい。
ほんの五分程でホームルームを終え、誰かに引き止められる前に急いで教室を後にした。解放感に緩んだ空気を縫うように廊下を進み、階段を駆け下りる。昇降口に向かいがてら携帯を見るとメールを一件受信していた。予想するまでもなく、景吾だ。


「『迎えに来た。校門のところに居る。ホームルームが終わったら連絡しろ。』……ねぇ」


何と言うか、跡部景吾という男は存外マメな男だと思う。
仮の婚約者になった日、私たちはメールアドレスと電話番号を交換した。だからといって用事もなければ連絡もしないだろうと思っていたのだけれど、予想に反して彼はその日の夜から毎日欠かさず就寝前の電話と、日中には他愛無いメールを送ってくるようになったのだ。
今日迎えに来てくれているのも……本音を言えば有り難迷惑っちゃ有り難迷惑だけど、違う学校に通う彼氏が迎えに来てくれる――という、まぁ憧れる光景と言えばそうだよね。何というか、女の子の理想を自然と叶えてくれる彼は不思議な男だと思う。
やっぱりマメなのかな。
私は『今昇降口。もう少し待って。あとそこ目立つから裏門に回ってくれない? お願いします。』と用件だけを書いたメールを送信して携帯をスカートのポケットに押し込んだ。靴を履き替え、見つからないようこっそりと景吾の様子を伺う。
残念ながら景吾の姿は彼を遠巻きに見ている女子生徒たちの分厚い壁に阻まれて叶わなかったが、彼が移動し始めたことだけはわかった。何故かと言えば、女子生徒たちの壁が崩れ始めたからだ。
思ったよりも話が分かる男だよね、跡部景吾。
私は浮き立った気分で昇降口を後にし、裏門の方へと急いだ。青学は駅から近いのもバス停から近いのも正門。故に裏門を使うのは裏門側の近所に住んでいる青学生の他は殆ど居ない。後は中を通り抜ける自分が彼より早く裏門へ着けば、再び彼が人に囲まれる前に抜け出せるという算段。完璧だ。
目論見通り、裏門へ続く道には人は疎らにしか居らず、これなら何とかなると思えた。噂の的になるだなんて真っ平御免なのである。
門柱に背を預けて暫く待っていると、外周をまわってきた景吾の姿が見えた。彼の後ろには数人の女子。後をつけているらしく、電柱の影に身を潜めている。噂の的から外れることは出来そうにないなと諦めが過ぎる一方で、この男ストーカーが山程居そうだなという、何とも言い難い妙な哀れみを覚えた。


「ごめんね? わざわざ回って貰っちゃって」


それも無駄になりそうだけど、とは言えないが。


「俺様が勝手に来ただけだからな。構わねぇよ」


本当にこの男は予想の斜め上を行く。てっきり怒るか機嫌を損なうかと思ったのに、何てことないように言うのだ。こういうところ、大人だと思う。
それに、さっきまで有り難迷惑だとか思ってたくせに、実際本人を目の前にすると……何というか、ちょっと嬉しい。


「来てくれたのは……嬉しい。ただ、あんまり目立つと後が面倒だから」


噂とか。噂とか。噂とか。


「アーン?」


よく分からないと言いたそうに首を傾げる景吾に、私は緩く首を振る。


「わからないならいい」

「……良いわけねぇだろうが。何の為に俺様がわざわざ足を運んでると思ってやがる」

「え?」


思わぬ反応に呆気に取られていると、景吾に額を小突かれた。


「ちょ、何?」

「質問してんのは俺だ」


あ、「様」が取れた。どういうからくりなのかは知らないけど、景吾の一人称は不安定だ。「俺」だったり「俺様」だったり。ただ分かるのは、大事な場面や目上の人の前で彼が「俺様」と名乗っているのはあまり聞いたことがないってこと。跡部パパの前しかり、見合いの時しかり、そのやり直しの時しかり。
つまりこれは私が思うよりずっと大事な話なんだろう。
私を見下ろすアイスブルーを見上げる。いつ見ても綺麗な目だ。


「ごめん。形から入るってやり方もあるし、付き合ってる風に振舞ってみてるのかな、くらいにしか考えてなかった。もしかして違うの?」

「……相互理解」

「え?」

「どんな性格なのか、普段どんなことを考えてるのか、価値観がどこにあるのか、何を好むのか、何を厭うのか――。何も知らないままじゃ好きも嫌いもねぇだろうが」


何気なく送られてくるメールに、毎夜かかってくる電話に、気まぐれのように訪れた迎えに、そんな意味が込められているなんて考えてもいなかった。
知ろうとしているのは自分だけだと思っていたし、何より、そんな自分も彼を好きになってしまった挙句、振られるのが怖くて踏み出せずにいた。けれど跡部景吾という男は易々と行動に移してしまえるのだ。それが堪らなく悔しい。


「噂。されると面倒だし、変に注目されるのは嫌だなって思ったの。あんまり知らない人からジロジロ見られるのは好い気しないでしょ?」

「アーン? そんなもんか?」

「そんなもんです。そ、それと……」


私は不甲斐ない自分を叱咤し、最初の一歩を踏み出した。


「今度の日曜、空いてる?」


会話の流れをぶった切るような問い。けど、景吾は私の一歩が見えたのだろう。ニヤリと口の端を上げ、目の奥に愉しげな光を宿した。


「あぁ」

「なら、私とデートしよ? エスコートは私がしてあげる」

「生言うんじゃねぇよ。俺様がエスコートしてやる」

「……ははっ」

「……クッ」


甘い雰囲気とは程遠い言葉に、互いに視線を合わせて笑い声を上げる。
そんな私たちの様子に、偶然通りかかった生徒や、景吾のプチストーカーをしていた女子たちがギョッとしていたけれど気にしない。
さて帰りますか? 視線で問えば、景吾が手を差し出してきた。異性と手を繋ぐなんて少し緊張する。
おずおずと差し出した手は、一瞬にして私よりも大きな手に包まれた。パッと見は綺麗な手も、肉刺の痕がそこかしこにあり、見た目よりずっと硬くてゴツゴツしている。一生懸命テニスに向き合ってた証拠だ。それが他人のことながら誇らしくて頬が緩んだ。斯く言う私の手も、拳ダコだらけで女の子らしい柔らかな手とは縁遠い代物なのだけど、これは男性から見ると好ましくないのかもしれない。残念だけどそういうものだよね。
歩き出した景吾に引っ張られるようにして彼の隣を歩き、繋いだ手に視線を落として嘆息した。すると、不意に景吾が、繋がれた手を僅かに持ち上げた。


「どうしたの?」


つられるように顔を上げると、景吾は繋いだ手から私に視線を移して柔らかに微笑んだ。綺麗な笑み。不意打ちもいいところだ。だけどそれ以上に――。


「悪くねぇな」

「……何が?」

「努力の痕が見える手は嫌いじゃねぇ」


――私が気にしていたことをサラリとプラスに転じてしまうその一言は、不意打ちを通り越してちょっと狡い。


「あ、ありがと。私も景吾の手は……嫌いじゃない」


「好き」と素直に出てこない言葉の代わりに、景吾の手を少しだけ強く握ったら、同じくらい強く握り返された。こういうの、悪くないかも。
繋いだ手の温もりを感じながら、私は心の中で緩く笑った。



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