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ひんやりとした空気が頬を撫でる。目の前に広がる白いリンクを守る為、空調機がせっせと仕事をしているようだ。不安定なスケート靴でリンクを目指して歩く。ドキドキと高鳴る鼓動がやけに煩く感じるのは、きっと気のせいじゃない。
何を隠そう、景吾のみならず、私自身スケート初体験なのだ。
エスコートすると言った手前、もっと行き慣れたゲームセンターに行くとか、カラオケに行くとかっていう選択肢もあったし、遊園地や動物園といった王道選択肢もあった。けど、私は何か「はじめて」を共有してみたかった。これで景吾がスケート経験者だった場合、目も当てられない事態だっただろうけれど、そこはそれ。結果オーライというやつだ。
「人が多いな」
キャーキャーとはしゃぐ子供の声に、あちこちから聞こえるざわめき、時折上がる笑い声。氷上は思いのほか賑わいを見せていた。
「貸し切りにすれば良かったのに――なんて無粋なことは言わないでね? 初デートな上、スケート初心者二人でこんな広いリンクなんて、悪いけど間が保つ自信ないからさ」
第一そんなに広いスペースがあっても使いこなせやしないと思う。
「………………言わねぇよ」
嘘だ。この間は絶対嘘だ。言おうとしてた……かどうかはわからないけど、少なからず思っていたには違いない。
ジト目で景吾を見上げる。景吾は罰の悪そうな顔で顔を逸らしたかと思うと、何かに気付いた様子で早々に視線を戻してきた。
「初心者二人?」
「あはは、実は私もスケート初めてなんだ。エスコートするとか言っておいてアレだけど、教わるとか教えるとかより、まっさらなことを二人ですることの方が、今の私たちには丁度いいのかな〜なんて。だから転んでも大丈夫だよ? きっと私も転ぶし」
ほら行こう、と手を差し伸べたら景吾に苦笑された。
「結局エスコート役やるつもりかよ、アーン?」
言われて構図を省みたら、手のひらを上にして手を差し伸べる自分の姿は、なるほど姫君をエスコートする騎士のように見えなくもない。というと言い過ぎのようだが、私はともかく顔立ちの整った景吾は姫と言っても違和感はないような気がする。なら、私がすべきことは一つだけ。
「お手をどうぞ、お姫様」
悪びれた様子も見せずにニコリと笑えば、苦笑から一変。景吾は頬を硬く引き攣らせた。けれどそれも一瞬のこと。気付けば気味の悪い笑みを浮かべていた。
「どうやら俺様の姫は冗談が好きらしい」
景吾は私の手をむんずと掴むと、手の甲が上に来るようにそのままクルリと引っ繰り返して己の手のひらに乗せて嫣然と微笑んだ。
うわ、美形ってずるい。
見られることに慣れている人間は、見せ方も十分熟知しているようだ。思わず美麗な表情に見蕩れていると、その間に景吾は私の手を引いたまま歩き出す。
「え? ちょっと待って。これって私の負けってこと?」
残念ながら答えはない。つまりそれが答えということなのだろう。
****
「せーの、で行こう」
リンクの出入り口に立ち、胸いっぱいに空気を吸い込む。景吾はどこか呆れ顔だが、反対はしないようだ。
「行くぞ」
「うん。じゃ、せーの!」
思いきり足を踏み出す。あ、と思った時には遅かった。
「ふあっ!?」
勢い込んだのが良くなかったらしい。踏み出した足は想像以上にズルッと大きく滑った。その後の展開はお察しの通り。滑って転んで、盛大に尻餅をついた。
「痛った! う〜、痛いやら冷たいやら恥ずかしいやら」
同時に足を踏み出したはずの景吾からは無様な声は聞こえなかった。ということは、必然的に無様に転んだのは私だけ、という答えが導き出されるわけで、尚恥ずかしい。
俯いてブツブツ呟いていると、視界の端からニュっと肌色が侵入してきた。手だ。
「冷える前に立て」
「ん、ありがと」
多分羞恥で顔が赤いと思うから、私は顔を上げないまま差し出された手に大人しく掴まった。
くそう、運動神経はそれなりに通っているはずなのに……。たぶん、きっと、恐らく油断したからだよね。うん。
確か噂によるとうちの生徒会長の口癖は「油断せずに行こう」だった気がする。そうだね、油断はいけない。ちょっとした心の弛みが大いなる羞恥を呼ぶ。次から気をつけよう。
景吾の腕が私を引き起こしてくれるのに合わせて、足に力を入れる。と、立ち上がる前にバランスが崩れた。
どうやらそれなりの力を入れて引き上げてくれた景吾に対して、私自身も自分の力で立とうとしたから力が余ってしまったらしい。あれ? つまりこの状況って私のせい?
思考が纏まりかけたところで再び鈍い痛みが臀部に走った。
「あうっ!」
「――っ!」
痛い。痛いけど、今度は景吾も一緒だから恥ずかしさは軽減された気がする。
顔を上げたら景吾と目が合った。こう……無様な様が似合わない人だな〜と思う。こけてるのなんて氷上でもない限りそうそう拝めない気がする。それくらい、氷の上に尻餅をついて座る景吾には違和感があった。
って、それどころじゃないか。早く起き上がらなきゃ服が濡れちゃう!
「景吾、早く立たないと服濡れるよ――っ!」
言いながら立ち上がろうとして三度転倒。もしかして壊滅的にスケートの才能が足りていないとか、そういう残念な何かがあるのだろうか。三度も打ち付けた可哀想な臀部を撫でさする。地味に痛い。
「ったく、才能が壊滅的だな」
否定できないのが悲しい。
景吾は笑いながら言って、立ち上がる仕草を見せた。うん、仕草だけ。端的に言うと景吾は私の二の舞を踏んだ。
一言で言えばこうだ。すってんころりん。
「景吾」
「何も言うな」
さっきの言葉をそっくりそのまま返そうと思ったが、当人にも自覚があるらしい。
情けなく眉尻を落とした景吾と視線が合う。
揃いも揃って無様だ。景吾もそう思ったのだろう。
「……ぷっ」
「ふふっ」
気付いたら同時に笑い出していた。
その時、スーッとブレードが氷を裂く音が聞こえた。直後、私たちよりずっと小さな男の子が、座り込んだままの私たちの真横を軽やかに横切っていった。チラリとこちらに向けられた表情はいわゆるドヤ顔で、それが余計に今の状況を際立たせる。
「はぁ、……ほら」
流石にいつまでも座り込んでいることに抵抗を覚えたらしく、景吾は立ち上がった。仕草ではなく、きっちりと。何というか、これは私だけ才能皆無説がやや濃厚ということだろうか。非常に遺憾である。
景吾は立ち上がるなり、自分の服についた氷を払うでもなく、すぐに手を差し伸べてくれた。それが何だかくすぐったくて嬉しい。
「どうした?」
差し出された手に手を重ね、緩く首を振る。
「ううん、景吾は格好悪いけど格好良いんだなって思っただけ」
美形云々とは関係なく、行動が男前だ。
グッと引っ張り上げられ、今度こそ立ち上がる。私は案の定バランスを崩したけれど、景吾が抱きとめるようにして支えてくれた。ふわりとフレグランスの香りが立ち上る。同じ中学生とは思えないよね、本当。
「格好良いってのはともかく、格好悪いってのは納得出来ねぇな、アーン?」
「結構な転びっぷりだったけど?」
「……には負ける」
ちょっとした間が、否定したかったけど出来なかった些かな抵抗に思えて、何だかほんの少し可愛く感じた。
「それは否定しないよ。……とりあえず、壁伝いから始めません?」
顔を上げれば思いのほか至近距離に顔があった。ドキリ。胸の奥が微かに波立ったような気がして、慌てて顔を背ける。
するとそれに気付いたのか、それとも壁伝い宣言がおかしかったのか景吾がクッと低く笑った。チラリと景吾の表情を窺い見て驚いた。それはきっと、その表情が短い期間ながらも、今まで見てきた中で一番柔らかな笑みだったからに違いない。
波音が一瞬、予感を告げるかの如く大きく響いた気がした。